「に・い・さ・ん?」 歌うような声が聞こえてくる。 「もう少し寝かせて……」 僕がベッドの暖かさに微睡んでいると、 「ふふ。こっちは正直ですね。妹に興奮してくれるなんてさすがは兄さんです。兄の鏡です。せっかくの特別な日なのですから妹として恋人として兄さんのバナナにチョコをかけてチョコバナナ……」 「てやっ」 それ以上聞いていられず僕はとっさに起き上がると華黒の頭に唐竹割り。 「もう。華黒の変態……」 「兄さんに言われるとゾクゾクしちゃいますね」 華黒は妖艶に笑った。 最近、君は方向性を見失ってないかい? 「で、何?」 小芝居のせいで完全に目が覚めた。 まさかこれを狙って……ありえませんねわかります。 「朝食です」 「でっか」 パジャマの上からどてらを羽織ってダイニングに顔を出す。 同時に、 「っ?」 濃厚なチョコの香りが漂ってきた。 見ればダイニングテーブルの上にはドロドロにとけたチョコの滝と、色とりどりのフルーツ。 苺、林檎、葡萄、マンゴー、パイン……エトセトラエトセトラ。 どう見てもチョコフォンデュだった。 「あー……そう云えば……」 今日は二月十四日。 バレンタインだったね。 ちなみに僕がいつもの席に着くと、 「はい。兄さん」 華黒がホットチョコレートを淹れてくれた。 砂糖少なめのほろ苦いチョコ飲料。 「で、朝からチョコフォンデュという暴挙を犯したのは?」 「黛さんです」 黛が挙手した。 「どうせ学校や放課後はお姉さんも大変でしょうから仕掛けるなら朝が適当だと思って準備しました」 さいでっか。 「というわけで今日の朝食は黛さんのバレチョコです」 「よく華黒が許したね?」 「まぁ精一杯妥協しましたけどね」 どうしても僕が他の女子からチョコを貰うということが気に食わないらしく、葛藤が透けて見えた。 「ほら。ルシールさん。今の内渡さないと機を逸しますよ?」 黛が発破をかける。 「………………あう……真白お兄ちゃん……どうぞ……」 可愛らしくラッピングされたチョコを僕に差し出してくるルシール。 チョコクッキーだった。 「ルシールの手作り?」 「………………うん……黛ちゃん……監修……」 「嬉しいよ。ありがと。大事に食べさせてもらうよ」 ルシール好みに微笑んで見せる。 「………………あう……」 とルシーるルシール。 可愛いなぁ可愛いなぁ。 どうしようこの愛しさ。 華黒の逆鱗に触れてでも抱きしめたい。 流血沙汰は御免だからしないけどさ。 さてチョコフォンデュを朝食にして黛にお礼を言うと、 「いえいえ。愛しいお姉さんのためですから」 謙虚に見えて華黒の逆鱗に触れるか否かの火中天津甘栗拳を繰り出してくる。 死にたいのかな黛は? 剣呑な光を宿す華黒の光が次の言葉でさらに深淵深くなる。 「はい。俺と鏡花からの本命チョコです」 水月が僕と華黒に紙箱を渡してくる。 「中は何?」 「オペラです」 たしかチョコケーキの一種だったね。 「ありがと」 「ありがとうございます」 「華黒先輩に喜んでもらうのが一番です。鏡花は真白先輩に喜んでもらえれば幸い、と」 「喜んでいるよ。ちょっと鏡花に変わって?」 「はぁ……構いませんが」 水月の瞳から自負が消えて臆病が取って代わる。 「いい子いい子」 僕はそんな鏡花の頭を撫でた。 「………………う……あ……」 鏡花は赤面してポーッと熱に浮いた瞳で僕を見やる。 その様がとても可愛い。 曰く、僕と時間を共有しているときだけ鏡花はストレス障害から逃れられるらしい。 想い人を想うことで苦痛が取り除かれるならこれ以上は無い。 何より女の子の憂いが僕の苦痛だ。 「兄さん……?」 「野暮天言わないの」 「むぅ」 華黒は何処までも不満そうだ。 「大事に食べさせてもらうから。ありがとう鏡花」 「………………うん……」 コクリと頷く鏡花。 もう耳まで真っ赤だった。 愛い奴愛い奴。 「で? いつまで俺の頭を撫でるつもりですか?」 鏡花の現界限界時間だったのだろう。 水月にいつの間にか切り替わっていた。 「華黒先輩」 「はい」 「大好きです」 「そうですか」 あまりにもあっさりと華黒は言い切った。 まぁそうなるよね。 * 三学期特有のクインテットが登校する。 バレンタインデーに美少女四人とイチャイチャしている男子生徒なぞ嫉妬を超えて猛殺の対象だろう。 僕自身有難がっているわけでもないので、こればっかりは想像するしかないのだけど。 それに悪意をぶつけられるのには慣れている。 無論華黒には言わないけど。 教室につくと自身の席に着く。 引き出しに一口サイズのチョコ駄菓子……千ロルチョコと『ハッピーバレンタイン。臼井』と書かれたメモ用紙が。 少し離れた席の臼井さんを見やるとパッと顔を赤らめてそっぽを向かれた。 照れるならしなければいい……とは思うけど心付けは嬉しくもある。 僕は千ロルチョコの包みを解いて口に放り込む。 キャラメル味だった。 甘い女の子アピールだろうか? 「てい」 首筋にチョップが入った。 漫画みたいに気絶できれば学校サボれたのにね。 「裏山屋上」 統夜だった。 「僕がチョコあげよっか?」 「そんな趣味は無い」 「ん」 僕もです。 「その千ロルチョコは誰からだ?」 「臼井さん」 「何個目だ?」 「黛、ルシール、鏡花ときたから四つ目だね」 「男子に代わって成敗いたす」 「…………」 多分代わってない。 それは私怨って言うんだよ? 「後は姉貴か……」 「先輩は貰う側じゃないかな?」 「去年を顧みてそう言えるか?」 「うーむ……」 一理ある。 「まぁ月の無い夜には気をつけな」 ニヤニヤと意地悪く笑う統夜だったけど、 「有り得ない」 とは言えなかった。 ゾクッとしたのは冬の寒さのためか。 それとも……。 考えるだけ無駄だったので思考を放棄する僕だった。 * 放課後。 僕と華黒とルシールと黛と水月の五人でアパートに戻ると、年齢の離れた二人の美少女が居た。 「やあ真白くん」 「どうもお兄様」 昴先輩と白花ちゃんだった。 「まったく兄さんは……」 妹の呪詛が聞こえてきたけどスルーで。 「何の用ですか?」 愚問だけど問わねば先に進めない。 「無論チョコを渡したくてね」 「私もです。お兄様」 「とりあえず中に入りましょか。多分……というか確実に手狭ですけど」 僕とセクステットヒロインは僕と華黒の城に吸い込まれた。 華黒の淹れてくれたチョコを飲みながら僕は言う。 「で? どんなチョコをくれるんです?」 回りくどいのも面倒なのでさっさと切り上げたかった。 いや、チョコをくださるのは純粋に嬉しいんですけど華黒の瞳に敵意と害意と殺意が黒く深く淀んでいくのが見て取れたので、 「気にしていないよアピール」 をせねばならなかった。 そんなわけで冷蔵庫に入れていた鏡花のオペラと、私室の勉強机に置いていたルシールのお手製チョコクッキーを食べながら僕は話を進めるのだった。 これだけチョコを食べれば夕食はいらないかな? 「私はこれだ」 と僕と華黒に紙袋を差し出す。 中に入っているのはプリンだった。 ただし黒い。 「私オススメ製菓店のバレンタイン限定チョコプリンだよ」 「ありがとうございます」 「まぁ受け取ってあげましょう」 華黒は何で上から目線よ? 突き放した言い方はらしいっちゃらしいけど。 「で? 白花ちゃんは?」 「ショコラティエに頼んで作ってもらったミルクチョコです」 シンプル・イズ・ザ・ベストって奴だ。 「ありがと。ショコラティエさんにも感謝してるって伝えておいて」 「はいな」 蓮華のように白花ちゃんは笑った。 「むぅぅぅ……っ」 いい加減華黒が限界だ。 「はい」 パンと一拍。 「では今日は解散。これ以上は流血沙汰になりかねない」 「ではルシール。行きましょうか」 「………………うん……またね……お兄ちゃん……」 「華黒先輩それではまた」 「ではね。真白くん。華黒くん」 「それではお兄様、また」 各々が帰宅して、パタンと玄関が閉じられた。 華黒が危なっかしい目で僕を見つめて言った。 「やっと二人きりですね、お兄様……」 蛇に睨まれた蛙ってこういうことか。 * 今日は胃の調子から夕食は出なかった。 悪いとは思ったものの僕から提案して華黒が受け入れた。 まぁチョコ三昧だったから胸やけがするのだけど、本番はここからだ。 華黒がチョコケーキを手作りで焼いてくれた。 今日最後のチョコだ。 チョコのスポンジにチョコクリームをかけて、チョコプレートにチョコペンで『ハッピーバレンタイン!』と書く。 「はい。兄さん」 そんなチョコケーキを僕に進呈してくる華黒だった。 「ありがとね」 「それは私のセリフです」 気持ちは……わからないじゃないけど。 「食べさせてもらえる?」 そんな僕の提案に、 「……っ!」 華黒に笑顔がほころんだ。 フォークでケーキを崩して突き刺すと、 「兄さん。あーん」 「あーん」 燕の雛の如くチョコケーキを与えられる僕であった。 ほろ苦いビター。 あぐあぐと華黒にチョコケーキを食べさせてもらった後、 「お茶が飲みたい」 と僕が言う。 甘い物は当分いいかな? 糖分だけに。 すみません。 今のカットで。 華黒はうめこぶ茶を淹れてくれた。 素直にありがたい。 「はふ……」 と茶を飲んだ後、安堵の吐息をついてしまう。 菓子に茶が合うのは洋の東西問わずどこでも一緒だ。 「誰のチョコが一番美味しかったですか?」 「みんなそれぞれ美味しかったよ?」 「そういう悪平等はいいですから」 「もちろん一番は華黒」 「御機嫌取りではなく?」 それを言われると痛いなぁ。 そりゃ単純に味だけ考えればブランド物の昴先輩や白花ちゃんや水月のチョコが勝るだろうけど、本心として、 「華黒のチョコが一番嬉しかった」 というものだ。 「そ、そうですか……。なんだか照れますね……」 えへへ、とだらしなく笑う華黒だった。 きゃわいいきゃわいい。 「兄さん」 「何?」 「私の兄さん」 「華黒の兄さんだよ?」 「私の私の私の兄さん」 「華黒の兄さんですね」 「そのですね」 「そのですね?」 「今日は……その……」 「色々あったね」 もはやカルマだ。 業の深さに真っ逆さま。 「いっぱい兄さんが好きです」 「ありがと」 「でもそれは他の子たちにも言えて……」 「…………」 「だからきっと……兄さんはもしかして……」 「私がいなくても大丈夫って?」 「……はい」 くねっと力なく垂れさがる犬のしっぽが華黒のお尻辺りに幻視できた。 いっぱいの女の子が僕にチョコをくれた。 それが不安で、嫉妬してしまって、そんな自分が嫌いで、だから僕の口から愛を聞きたいのだろう。 僕の愛情だけが華黒の心の清涼剤だ。 「いつだって僕の一番は華黒だよ」 苦笑と微笑の中間くらいの塩梅で笑う僕。 「本当……ですか……?」 へにゃりと垂れた忠犬の犬耳を華黒の頭に幻視できた。 言葉じゃ足りないみたいだ。 「今日は一緒にお風呂に入ろっか」 「兄さんから言ってくれるなんて……」 「意外かな?」 「それは……まぁ……」 困惑される。 さもありなん。 「私は兄さんが好きです」 「僕も華黒が好き」 「兄さんは私の全てです」 「僕には華黒が必要だ」 「本当に?」 「本当に。華黒……」 ちょいちょいと僕は華黒を手招きする。 華黒が対面から回ってきて僕の隣に座る。 「チョコ。ありがとね」 そしてチョンと少し唇に触れるだけのビターなキス。 「あ……」 と名残惜しそうな華黒に、 「ビターなチョコにはビターなキスが合うでしょ」 言ってウィンクすると華黒は照れて赤面した。 ん。 可愛い可愛い。 |