「ん……むに……」 まろやかな目覚め。 瞬き。 現実に位相を合わせる。 認識。 了解。 僕は覚醒した。 「くあ……」 欠伸を一つ。 それから右腕に重みを感じる。 意識せずともわかった。 華黒が僕の腕に抱きついて寝ているのだ。 ムニュウ。 その感触は心地よいけど……まだ責任をとれる立場に僕はいない。 ので、華黒を振りほどく。 同時に華黒がパチリと目を覚ました。 黒真珠にも例えられる澄んだ瞳が僕を捉える。 せわしなく華黒の瞳孔が動き、それから、 「おはようございます兄さん」 状況を察したのだろう華黒がそう言った。 「おはよう華黒」 脊髄反射で返す僕。 「珍しいですね。兄さんが私より先に起きるなんて」 百墨真白は百墨華黒より先に寝て遅く起きる。 それは地動説くらいに当たり前のことだ。 ……駄目だなぁ僕は。 ともあれ、 「ま、こういう日もあるさ」 「どうしましょう?」 疑問を口にしながら華黒はくまさんパジャマの姿で身を起こす。 「もう朝食をとられますか? なんでしたらお作りしますが」 「ん〜……」 呻いた後、 「いや、いいや」 遠慮する僕。 「ではせめてコーヒーでも淹れましょうか」 「華黒はいい子だね」 よしよしと頭を撫でてやると、 「えへへぇ」 と相好を崩す華黒だった。 何これ可愛い。 「では準備をしてきます」 と言ってパタパタと寝室から出てキッチンへと向かう。 僕はその背中を見ながら、 「やれやれ」 と頭を掻くのだった。 決意は一瞬。 容易いものだ。 僕もベッドを抜け出てダイニングに向かう。 頭を振って眠気の残滓を振り払い華黒の淹れてくれたコーヒーを飲む。 二人分のコーヒー。 僕と……それから華黒の分だ。 「こんな早くに兄さんが起きるなんて……。これからどうしましょう?」 困惑する華黒。 「華黒は朝食をとってルシールと黛と一緒に学校に行くこと」 「兄さんは……」 「僕は今日はサボるよ」 「…………」 ズズとコーヒーをすすった後、 「私がついていくことは?」 哀願と躊躇の二重奏で華黒は質問した。 「許可しない」 キッパリ。 「たまには一人にさせて」 「兄さんがそう言うのなら否やはありませんが……」 どこか不満そうに華黒。 まぁ、 「いつも兄さんの隣に」 が心情の華黒だ。 僕の孤独願望と華黒の密着願望は相反する。 「今日一日だけだよ。また明日からちゃんと華黒のお兄ちゃんするから」 「兄さんの言を疑うわけではありませんが……」 それでも不満は拭い去れないらしい。 マシロニズム。 しょうがないと言えばしょうがない。 諦めろと言われれば諦めるしかない。 それは真白だけじゃなく華黒にも言えることだけど。 とはいえ華黒としては危ういことなのだろう。 僕が、 「一人になりたい」 と言うのは、 「華黒とのしがらみから解放されたい」 と同義だ。 無論僕は華黒を愛しているし華黒も同様だろう。 ただ理屈で理解しても心情で納得できるかは別の問題だ。 華黒は華黒から真白が離れるのを強烈に警戒する。 する他ないのだ。 僕らはそういう風に出来ているのだから。 だから僕は、 「大丈夫だよ」 華黒の髪をクシャクシャと撫ぜる。 安心させるように。 納得させるように。 「僕が華黒以外に心を許すことはないから」 うるっとした瞳を向ける華黒。 「本当ですか……?」 「本当です」 嘘でも肯定する場面だけど煽る必要もないだろう。 「では夕食を準備してお待ちしております」 華黒は誠心からそう言った。 ありがたいことだね。 * 平日。 梅雨はあけてないけど今日は晴れ。 ティーシャツとジーパンを纏って僕は朝早くに自身の城から飛び出した。 華黒の、 「いってらっしゃい兄さん」 の言葉に後ろ髪を引かれるのはしょうがない。 でもそれを振り切って僕は外出した。 第一の目的地は駅。 サラリーマンの作る波に乗って僕は電車を利用する。 目的は二駅先の都会。 ブラブラと時間を潰すには好都合な場所だ。 今日は一日都会で過ごす。 それが僕の予定だった。 電車にガタンゴトンと揺られる。 通勤中のリーマンに囲まれて、車内の隅で窓に流れる風景を見ていると、フワリと優しさに包まれた。 優しく……どこまでも甘い抱擁だった。 そしてカプッと耳たぶを噛まれる。 ゾクゾクと警戒心が先に立つ。 優しく抱擁されることが僕にとっての致命的な状況に他ならなかったからだ。 「やあ、真白くん」 聞き覚えのある声が僕の耳元で言葉を囁く。 「相も変わらず君は可憐だ。とても……とても酩酊してしまうよ」 その言葉で予感は確信に変わる。 こんなことを素で言う輩を僕は一人しか知らない。 他にもいるかもしれないけど少なくとも僕に絡んでいる時点で決定的だ。 「酒奉寺……昴……!」 「正解だ」 くつくつと笑い声を響かせて、ギュッと僕を抱きしめる昴先輩。 「うん。抱き心地のいい体だ。さすがは百墨真白。私が心を奪われるのも致し方なしと言ったところかな?」 「相も変わらず」 はこっちのセリフだ。 「先輩。どうしてこの電車に?」 「真白くんがいるからさ」 観念論はいいから。 「僕と乗り合わせる確率なんて天文単位でしょう」 そもそもにして、 「大学へはロールスロイスで送迎されているんじゃありませんでしたっけ? それなのによりにもよって電車を使っている……」 そういうことなのだった。 「僕に発信器でも付けてるんですか?」 「まさか」 ふ、と僕の耳に息を吐く先輩。 「愚弟に聞いたのさ」 「…………」 愚弟……。 それは当然酒奉寺昴先輩の弟……酒奉寺統夜のことを指すのだろう。 「あいつ……」 それ以上は言葉にならなかった。 何もかもがやわくちゃだ。 なぜ統夜が僕の行動を知っている。 まるでリアルタイムで把握しているかのように。 そもそもにして、 「一人になりたい」 と思ったのは今日覚醒してからのことだ。 統夜に教えているはずもない。 なのに統夜は正確に昴先輩を導いた。 「本当に発信機の類は付けてないんですね?」 確認と云うより確信に近い疑問。 「そこまで酒奉寺家は野暮じゃないよ」 「統夜の助言はどう思っています?」 「さぁて」 昴先輩はむしろサッパリしていた。 「たまにアイツは私にもわけのわからない洞察力を発揮するんでね」 「…………」 僕の行動を見切られたのを、 「わけのわからない洞察力」 で完結させられるのも癪だけど、それを昴先輩に抗議するのは無意味だろう。 「本当に……」 やれやれ……。 「何者なんだ統夜は……」 「それは私こそ聞きたい疑問だな」 「それが統夜の助言に乗っかっている人間の言葉ですか」 「今が幸せなら多少の疑問には目をつむるさ」 「僕は一人になりたいんですけど……」 「まぁそう言うな」 気さくに昴先輩。 ギュッと強く抱きしめられる。 誘惑と云うには弱く、しかして確かな感触。 電車に乗っているリーマンがちらちらと僕と昴先輩を見ている。 まぁ無理もない。 「ああ、森の香り……私の贈った香水をつけてくれているんだね」 「腐らせるのももったいないですし」 皮肉げな僕。 無論そんなものは昴先輩には通じない。 「本当に酩酊するよ。真白くん」 そりゃようござんした。 「君と出会えたことにロマンスの神様に感謝せねば」 「大学はいいんですか?」 「今日は講義を入れてないから大丈夫だよ」 さいですかー。 「どうせならせっかくの休みを使って……僕じゃなくてハーレムの女の子たちを相手にすればいいのでは?」 「手に入らない物ほど渇望するのは人間の業だよ」 ……わからないではないけど。 「可憐の君よ。今日は君に愛情を注ごうか」 僕は一人になりたいんだけどな。 そんな理屈が通じないのも酒奉寺昴という人間なんだけどさ。 * 電車を降りて都会の散策。 ビル群を縫うように歩いて僕と昴先輩は手芸屋を目指した。 「ところで」 途中コンビニで買ったペットボトルのウーロン茶を飲みながら僕は言の葉を紡ぐ。 「大学の方はどうです?」 「中々粒揃いだよ」 「…………」 そういう意味で聞いたわけじゃないけど酒奉寺昴にとってキャンパスとはつまりそういうことなのだろう。 「大学生にまで手を出してるんですか?」 「無論」 「先輩一回生ですよね? 先輩と蜜月を?」 「火遊びをしたいっていう女性は少なからずいるからね」 「…………」 それが先輩なら言うことなし……か。 ウーロン茶を飲む。 「サークルには入りました?」 「ああ、無論」 「どうせ先輩のことだからいろんなサークルを掛け持ちして火遊びをしたい女性を狙っているんでしょう?」 「失敬な」 憤然と先輩。 「どの口が」 とは言わない。 先輩の次の言葉を待つ。 「私が入っているサークルは一つだけだよ。別にサークルに入らなくても美しい女性は見繕える」 自慢するところじゃないと思うんですが……。 ともあれ、 「ちなみに何のサークルに?」 問うてみる。 「手芸部」 おや。 まぁ。 ちょっと意外。 「先輩縫い物なんて出来るんですか?」 「乙女の嗜みだよ」 ニヤリと笑う先輩だった。 「それに気に入った女の子に自身の作った可愛い衣装を着せてあげるのも悦に入れられる条件と云うものだろう?」 なるほど。 「無論手芸部に可憐な女性が多いのも理由の一つだがね」 「…………」 台無しだ。 オチをつけなきゃ死んじゃう病なんだろうか? とまれかくまれ、 「いけないことをしているならメジャーをあてるのも簡単ですか……」 そういうことなのだった。 「採寸なんか必要ないだろう?」 あまりに意外な言葉に、 「は?」 ポカンとする僕。 なして? 「女性の採寸なんて見ればわかるじゃないか」 有り得ない言葉を聞いた気がした。 「見ただけで寸法割り出せるんですか?」 恐る恐るな僕に、 「当然」 断ずる先輩。 どこまで規格外なんだこの人は……。 「じゃあ部室でチクチク縫っているわけですか?」 「いや、部室では女性にちょっかいをかけることしかしないね。幸い手芸部は女性しかいなくて、しかもレベルが高いから」 多分それが本質的な理由なのだろう。 そんなことを思った。 事実だろうけど。 「では縫い物は?」 「私の家にはアトリエがある。そこで、だよ」 うーん。 ブルジョアジー。 さてさて。 「じゃあ手芸部に入る必要はないのでは?」 「可憐な女性が多数いるだけで入る価値はあるさ」 躊躇いもなく昴先輩。 「手芸部の部員には私の縫った衣装を既にプレゼントしている」 「ほう」 「写真を見るかい?」 そう言って情報端末を操作して僕に見せてくる。 「これは……」 可愛かったり綺麗だったりする女性がポップやカジュアルやコスプレを身に纏っている画像が表れた。 そのどれもが完成されたデザインだった。 「……これを採寸無しで?」 「然り」 満足げに頷く先輩。 「キャンパスで綺麗な女性を見ればインスピレーションが湧いてね。その女性に着せたい衣装が自然と浮かんでくるんだよ」 「で」 と、これは僕。 「それを目的の女性に着せるために縫うんですか?」 「他にないだろう?」 言い切るなぁ……。 別にいいんだけど。 「将来は服飾デザイナーですか?」 「まさか」 先輩は肩をすくめる。 「酒奉寺のしがらみさ」 それは憂いの言葉だった。 気づかないふりをするのにちょっと苦労した。 |