超妹理論

ゴールドエクスペリエンス


「Pppp! Pppp! Pppp!」
 目覚まし時計のアラームが鳴る。
 ホーホーホッホーホーホーホッホー……ホー……というなんとも後味の悪いキジバトの鳴き声を聞きながら僕は覚醒した。
「ん……むに……」
 僕は鳴り響く目覚まし時計のアラームを止めようと腕を伸ばそうとして、それができないことに気付く。
「……ん……むに……?」
 眠気眼を開けて腕の上にのしかかっているモノを見る。
 それは、
「おはようございます兄さん」
 長い黒髪を持って、白磁器の肌を持って、生気の溢れる眼差しを持って、整った顔立ちを持った少女だった。
「兄さん、朝食の用意ができてますよ……」
 少女……百墨華黒は、僕こと百墨真白の伸ばした腕に腕枕をしていた。
「か、華黒……!」
 驚く僕に、
「おはようございます兄さん」
 華黒は語尾にハートマークをつけてもう一度そう言った。
「何してるのさ華黒……!」
「何って……腕枕……?」
「朝食の用意ができてるって言ってなかった?」
「ですから朝食を用意してから兄さんの部屋を覗いて、ついでに兄さんの腕を枕にさせてもらった次第です」
「『ついでに』からの行動が理解できないんだけど!?」
「兄さんの腕がちょうどいいところにあったもので。はぁ……至福の時間でした……」
 うっとりとそう言う華黒。
 僕は無理矢理華黒の頭から自身の腕を振り外すと、
「あん……」
 と嘆く華黒を無視して、腕を伸ばし目覚まし時計のアラームを止めた。それから薄い掛布団を剥いで腹筋の要領で上体を起こす。
 同時に華黒の姿も掛布団がはがれたことによりあらわになる。
 華黒は、黒い下着の上にエプロンだけという格好をしていた。
 慌てる僕。
「何してるのさ華黒!」
「何って……朝食の用意をしてから兄さんを起こそうと思って……そのままの格好で兄さんの部屋に入って腕枕をしてもらった次第です」
「だから『そのまま』からの行動が理解できないんだけど!? っていうかもしかして下着にエプロンのままで朝食を作ったの!?」
「もちろんです」
 あっさりと頷く華黒。
 駄目だこいつ……早く何とかしないと……。
「とりあえず早く服を着て!」
「ええ!?」
「何故驚くのかが理解できないんだけど!」
「この格好……グッときませんでしたか? やっぱり裸にエプロンの方がよかったですか?」
「余計悪いよ!? いいから服を着てくる! あんまり遊びが過ぎるようだと怒るよ僕」
「に・い・さ・ん……情熱の猛るままに私を好きにしていいんですよ?」
 僕のおとがいを人差し指で持ち上げて、ついでにエプロンをずらして下着をちらつかせながら挑発してくる華黒。
 僕は華黒の頭上にチョップを落とした。
「はうあ!」
 奇声をあげて怯む華黒。
「いいから早く着替えて朝食の準備して。その間に僕も着替えるから」
「ぶー。甲斐性なしです兄さんは……」
 すごすごと僕の部屋を出ていく華黒の後姿は当然ながらエプロンに隠れていないブラとショーツが丸見えで目に毒だった。



 僕はティーシャツを着てジーパンをはくとダイニングに顔を出した。華黒は桜色のシャツに黒いジャケット、それからチェックのスカートだ。
 二人そろってダイニングテーブルにつくと、
「「いただきます」」
 と言って合掌した。
 今日の朝食は和食だった。五穀米に焼き鮭、納豆に味噌汁。
 僕は味噌汁をすすりながら言う。
「今日からゴールデンウィークだよね? べつにこんな真面目に朝食を作らなくてもよかったんじゃない?」
「兄さんに手作りを食べてもらうことこそ私の至福ですよ。本当なら学校の昼食も私のお弁当にしてほしいくらいですのに……」
「それは……ちょっと……」
 そんなことしていたら今でさえキツい華黒に想いを寄せる男女の嫉妬のレーザービームが僕を刺すだろう。
 昼食くらいは学食で我慢してもらいたい。
 納豆に梅干を落とし、ぐるぐるとかき混ぜると僕は納豆を食べる。
 伸びる糸を箸でからめとりながら言う。
「それでゴールデンウィークだけど華黒って何か予定ある?」
「それはもう」
「あるんだ……」
「毎日兄さんとデートする予定が……」
「身に覚えがありません!」
 そこはキッパリと言う。
 あまり華黒をつけ上がらせると何をされるかわかったものではないからだ。
 華黒は口をへの字にして僕をジト目で睨んだ。
「もうっ。兄さんは意地悪です……」
「……何が悲しくて妹とデートしなきゃならないの」
「妹だと思うから駄目なんです。恋人だと思えば何の違和感も……」
「恋人じゃないし」
 そう言って僕は焼き鮭を箸でほぐすと口の中に入れた。
 うん。いい焼き加減。さすが華黒。
 口に出しては言わないけど。
 テキパキと要領よく朝食を食べ終わると僕は皿を重ねてキッチンに持っていく。
 華黒が言った。
「あ、私が洗いますので水につけるだけでいいですよ」
「あいあい」
 ここは言われた通り華黒に任せるとしよう。
 僕は「ふあ……」とあくびをするとキッチンで麦茶をコップに注ぐとこれでもかとばかりに砂糖を入れて、ダイニングに戻る。華黒が入れ替わりでキッチンに行き水洗いを始める。
 僕がダイニングで茶を飲んでいるとピンポーンとインターフォンが鳴った。
「兄さん。手が離せません。代わりに出てもらえないでしょうか?」
 皿洗いをしている華黒がそう言う。
「はーいはいはい」
 僕は了承して、
「どちら様でしょうか?」
 キッチンから続く玄関のドアを開ける。
 そこにいたのは、金髪セミロングの、華黒よりなお白い肌を持って、青い目をした美少女だった。服装は白いセーラー服。
「ルシール……」
 僕は知らずに金髪の美少女の名前を呼んだ。
「ルシール!?」
 玄関からすぐの水場で華黒が驚く。
 皿洗いを手早く終えて、エプロンで濡れた手を拭くと華黒は金髪の美少女……ルシールに近づいた。
「久しぶりですルシール。私と兄さんの卒業式以来ですね」
「………………うん」
 か細い声でそう答えるルシール。
「今日はどうしたんです? 来るって言ってくれれば準備の一つもしましたのに……」
「………………えと、今日は、迎えに……」
 要領を得ないようにそう言うルシール。
 そんなルシールの言葉を補足するように、
「それについてはパパから説明しよう」
 そう言っていきなり現れたのは百墨家の父だった。
 父は色眼鏡をかけてアロハシャツを着て……とても開放感あふれる格好をしていた。ふと玄関から外を見れば父の愛車がアパートに横付けされていた。
「父さん……ゴールデンウィークも出社しなきゃって泣いてなかった?」
「いやぁそれが予想以上に早く仕事が片付いたから休暇もらっちゃった」
 そう言ってあっはっはと笑う父。
「それで、どうしてルシールと一緒にいるのさ?」
「いやぁ、これからキャンプに行くことになったんだ。どうせだからと弟に連絡したら仕事が忙しいからと断られたが娘のルシールちゃんが自分だけでも行くと言ってくれてね」
 ちなみにルシールの本名は百墨ルシール。僕と華黒にとっては従姉妹にあたる。一学年下で今は中学三年生だ。言わなくてもわかる事実だけどハーフだ。
「で、なんでいきなりキャンプ?」
「ゴールデンウィークだからな」
 いや、その理屈はおかしい。
「もう真白と華黒の着替えは車に乗せてあるぞ。そのままの格好でいいから早く乗りなさい」
 用意周到なことで。
「………………あの……真白お兄ちゃん」
「ん?」
「………………久しぶり」
「うん。久しぶり」
 そう言ってニコッと笑ってあげるとルシールは顔を真っ赤にして俯いた。照れ屋なところは治ってないようだ。それがルシールの可愛さでもあるんだけど。



 本当に朝の状態のままで僕と華黒は車に乗せられた。そのままキャンプ場までツーリング。
 山の海キャンプ場。
 かすれたペンキでそう書かれた看板の、それがキャンプ場の名前らしい。すぐ隣には林、反対側には釣堀と公園があった。
 ちなみに時間は夕方の五時。長い道のりだった。
「それじゃ男組はキャンプの準備をするぞ。女組は夕食の準備をお願いする」
 そういう鶴ならぬ父の一声で役割分担は決まった。
 ポールをセットしてスリーブに通す。インターテントの上にアウターテントを重ねてペグで固定する。そんな感じで二張のテントを父とともに張る。
 そうしている内に女組はバーベキューの準備をしていた。用具は重いので男組があらかじめ準備していた。後は材料を切り、炭に火をつけるだけだ。母と華黒は手際よく材料をそろえる。そこから少し遅い足取りでバーベキューの準備を進めるルシール。
 全ての準備が整った時には太陽が赤く染まっていた。夕焼けだ。
 パタパタと一生懸命うちわを仰いで火を起こすルシールの隣に立つ。
「代わろうか?」
「………………ふぇ!? 真白お兄ちゃん!?」
 どうやら近づいたのに気付いてなかったらしい。ルシールはうちわで顔の下半分を隠しながら後ずさった。顔は真っ赤だ。どこまでも照れ屋らしい。
「ほら、うちわ貸して」
 そう言って右手を差し出す。
「………………は……はい」
 そう言ってうちわを差し出すルシール。
 僕はうちわを受け取るとパタパタと炭を扇いで火を強くする。
 そんな僕の隣におずおずと立って、
「………………ありがとう。真白お兄ちゃん……」
 そんなことをルシールは言う。
 僕は困ったように「ハハ」と笑った。
「こんな体力仕事は僕か華黒にでも押し付ければいいよ」
「………………でも……華黒お姉ちゃんは私より包丁使うの上手だし……私……こんなことくらいしかできない……から……」
「あんまり華黒と自分を比べない方がいいよ。僕も散々華黒に対してコンプレックス感じてるから言えるんだけどね」
 パタパタとうちわを扇ぐ。
「………………華黒お姉ちゃんは……何でもできるもんね」
「器用だからね。あいつは。僕達と違って」
「………………羨ましいな……華黒お姉ちゃん……」
「あんまり上を見すぎない方がいいよ。思いつめてもいいことなんか何もないからね」
「………………でも……羨ましいな……」
 そう言って背の低いルシールは僕の方を向くと、僕がルシールの方を向いていたのに気付いて、目が合って、それから真っ赤になって目を逸らした。
「もしかして……っていうほど唐突じゃなくて実は結構前から思ってたんだけど……もしかしてルシール……僕のこと苦手?」
「………………ん……んんっ!」
 ぶんぶんと首を横に振るルシール。
「そう? そうならいいんだけど……」
 パタパタとうちわを扇ぐ。
 と、
「兄さん!」
 後ろから華黒が抱きついてきた。
「華黒。ベタベタしない」
「私、夕食の準備終えましたよ。褒めてください」
「はい、よくできました」
 華黒の抱擁から脱すると、僕は華黒の頭をよしよしと撫でた。
「えへへぇ……」
 と照れ笑いする華黒はとても可愛かったけどそれは言わないでおいた。
 それから華黒はルシールに近づくと何やらゴニョゴニョと耳打ちした。
 何を言われたのかボンと顔を真っ赤にして首を精一杯横に振りだすルシール。
 そんなルシールの背中を押して、華黒が言う。
「ルシールもいっぱい手伝ってくれたんですよ。褒めてあげてください」
「……はい、よくできました」
 そう言って頭を撫でた。
 ルシールは真っ赤になってプシューと湯気をふきだした。
 それから走って僕から逃げ出した。
「…………」
 もはや何も言えない僕。
 ギギギと華黒の方を見て言う
「華黒のせいで嫌われちゃったじゃないか……」
「いやー、あれは嫌ってるわけじゃないですよ?」
「なんでそう言えるの?」
「言うなれば乙女同士のシンパシーですね」
 何を言ってるんだ、この妹は。



 さて、夕食も食べ終わり、設営されていた簡易の温泉にも入り、今日は寝るばかりとなった。
「じゃ父さんらはこっちだから」
「おやすみ〜。真白ちゃん。華黒ちゃん。ルシールちゃん」
 そう言って小さい方のテントに入っていく両親。
 僕と華黒とルシールは大きい方のテントへと入っていった。
 シュラフが三つ敷かれている。
「それでは兄さんが中心ですね」
「何で!?」
「だってその方が都合がいいですもの……。ねぇ、ルシール?」
 そんな華黒の言葉に、
「………………っ!」
 顔を真っ赤にしてうろたえるルシール。
「ほら、ルシールも僕の隣は嫌だって……」
「………………そんなこと……ない」
「だ、そうですよ兄さん?」
「そうなの?」
「………………はい」
「そう。ならいいけど……」
 若干納得いかないものを感じながらも僕は三つ川の字に並べられているシュラフの中央に入る。
 右に華黒。左にルシールだ。
 左のルシールは僕に続いて素直にシュラフに入ったけど、華黒はといえば、僕がシュラフに入ってジッパーを閉めると、
「ふふふ、かかりましたね兄さん」
 そう言って僕のマウントポジションを取った。
「何するの華黒」
「おやすみのチューをします」
「ギャー!」
 華黒の顔を抑えようにも両手ともシュラフに入ったままだ。取り出すのには時間がかかる。しょうがない。次善策で横に転がろうとし、マウントポジションをとられていることに気付く。しょうがなく《発症》して華黒のキスを頭を振って躱す、躱す、躱す。その隙にシュラフから両手を出して華黒の頭を捕える。
「な・ん・で・キスしてくれないんですかぁ!」
「自分の胸に聞けー!」
「いいじゃないですか……。兄さんのケチ!」
「ケチで結構メリケン粉。妹とキスするくらいならルシールとキスするよ」
「………………へ?」
「あ!」
 しまった。勢いに乗って余計なことを言ってしまった。
「………………あわ、あわわ」
 あからさまに狼狽するルシール。
「いや、これは冗談というか! ルシールも気にしないでもらえると助かります!」
 そう言ってルシールに謝罪する。
 華黒が憤慨した。
「なんで私じゃなくてルシールなんですか!」
「兄妹は結婚できないけど従姉妹なら結婚できるもんね!」
「私達は義理の兄妹だから結婚可能です!」
「妹に手を出す奴があるか!」
 そんな風にあーだこーだと言いあってる内に夜もふけていった。
 ちなみにルシールは顔を真っ赤にしたままだった。



「くあ……」
 誰も起こす者がおらず昼過ぎの十四時に僕は目を覚ました。
 それから父さんの持ってきていた釣竿を持って釣堀に向かっている僕だった。
「はうーあ……」
 などとのんびりとあくびをしながらヤマメがかかるのを待つ僕。
 本来なら六月以降がヤマメを釣るのに最適な時期なのだけど、釣堀に季節は関係ない。
 ちなみに釣ったヤマメは四百円で引き取らねばならないルールだ。
 釣堀の傍に立ててある看板にそう書いてある。
「兄さーん」
 と活発な華黒の声が後ろから聞こえてきた。
「んー?」
「ヤマメ、釣れそうですか?」
「んー、どうだろう……」
 とりあえず今のところはかかっていない
「それで、どうしたの華黒?」
「あ、はい、私とルシールでおにぎりを作ったんです。どうぞ」
「……ありがと」
 そう言っておにぎりを一つもらう僕。
 ある程度おにぎりを咀嚼するとジャリっと食塩のざらついた音が聞こえた。
 多分ルシールのものだろう。あれでぶきっちょなところがあるから。学業だけを見れば成績は抜群にいいのだけど運動や家庭科はすこぶる成績が悪いらしい。まぁそれでも成績がいいだけ僕よりマシだ。
「どうですか?」
 そう聞いてくる華黒に、
「ん、おいしい」
 素直に感想を述べる。
 二個目のおにぎりを取って食べる。
 こっちは完成された味があった。塩加減も握り方も絶妙。当然華黒のだろう。
「おいしいですか?」
「以下同文」
 そう言った後、僕はふと気になることを聞いてみた。
「ところで華黒……」
「はい。なんでしょう?」
「ルシールと仲良くなる方法ってわかる?」
「はぁ?」
 華黒は口をへの字にして呆れた。
「僕、何か変なことでも聞いた」
「とりあえず言わなければならないことを言いましょう」
「拝聴しましょう」
「この唐変木、と」
「は?」
 一秒、二秒、三秒。
「はぁ!?」
「ですから唐変木と」
「いやいや、そんなわけないじゃん」
「ですから唐変木と」
「華黒、飛躍しすぎ」
「そうでしょうか? なら何故ルシールは兄さんを前にすると緊張するのでしょう」
「そりゃ僕に苦手意識を持ってるとか……」
「だとしたら何故親の応じなかったキャンプに一人だけついてきたのでしょう?」
「…………」
「兄さんに会いたかったからだと考えれば説明がつきませんか?」
「いや、でも……」
 いくらなんでもそれは。
「それじゃ仮にルシールが僕を好きだとして、何故華黒はルシールを敵視しないの? 他の人間が僕に善意を向けるだけで敵意むき出しにする“あの”華黒が」
「簡単ですよ。敵足りえないからです」
「……あっさりとまぁ言ったもんだね」
「ルシールはいつも私と自分を比較して劣等感を持っています。私や兄さんから見たらルシールは魅力的な女の子ですけど、ルシール自身は自分に自信を持てていないのです。ですから現段階では敵視するまでもないと私は判断してるんです」
「今後は……?」
「それはわかりません。無論……だからと言ってルシールの覚悟を待つほど私は忍耐が強くはありませんよ?」
 そう言って僕の耳に息を吹きかける華黒。
「うひぇ……!」
「感じましたか?」
「…………」
 僕は無言で華黒にデコピンをする。
「あうぁ! 何するです!」
「それはこっちのセリフ。僕らは兄妹だよ? 華黒も僕なんかじゃないもっと魅力的な人を探してだね……」
「兄さん以上の人なんていませんよ。だって……兄さん以外の誰も私をあの地獄から助けてくださらなかったじゃないですか」
「それがいけなかったのかなぁ……」
「そんなことはありません! 兄さんはあの地獄が今でも続いていいと言うのですか!」
「そういうわけじゃないけど……」
 それでも考えてしまう。どこかで僕がヘマをしなければ華黒は正常に生きられたんじゃないかって。
 それは負い目と呼ばれる感情だ。
 そんな僕の、持った釣竿がクイクイと水中に引っ張られる。
「かかりましたよ兄さん」
「おーきーどーきー」
 そう言ってピッと釣竿を振り上げる僕。釣り針に引っかかったヤマメが放物線を描いて僕の足元へと引っ張られる。ピチピチと地面で跳ねるヤマメ。僕はヤマメから釣り針を外すと華黒に手渡した。
「これ、管理人さんのところに持っていって焼いてもらって」
「はいな。それから兄さん……」
「なんでやしょ?」
「愛してますよ」
「……いいから早くヤマメを持っていきなさい」
「照れてる照れてる」
 ま、否定はしないけどね。



 今夜の夜食はカレーだった。まぁバーベキューに続いてキャンプの定番メニューと言えるだろう。明日には帰るのだからこの二つの夜食をこなしたのは当然と言えるかもしれない。
 夜食を食べ終えて、簡易の温泉に入ってさっぱりすると僕と華黒とルシールは敷かれた芝生の上に寝っころがった。
 夜空は満開の星々。
 僕は芝生に寝っころがったまま夜空を指差した。
「北斗七星が見えるでしょ」
「………………はい」
「そこから春の大曲線を辿って春の大三角が見える」
「………………はい」
「その春の大三角の近くに見える一際綺麗な星がおとめ座のスピカ。そのスピカの近くで光っているのが土星だね」
「………………真白お兄ちゃん……星に詳しいんだね」
「うん。まぁ、宇宙ってロマンがあるからね」
「………………ロマン……ですか?」
「どうしたって星の光は光速を超えることはない。たとえばおとめ座のスピカなんか二百六十光年離れてる。つまり僕達が見ているスピカの光は二百六十年前のものなんだ。これだけでも自分の小ささと宇宙の大きさを実感できる」
「………………はぁ……」
 どこかポカンとしてそう呟くルシール。
「ま、星座なんてアステリズムの範囲内の……言ってしまえば人間のエゴによって定義されているだけなんだけどね」
 そう言ってくつくつと笑う僕。
「それに星がチカチカ光っているのはシンチレーションによるものだ。本来の姿じゃないんだよ」
「………………シンチレーション?」
「大気によって星の瞬きが揺らぐことだよ」
「………………はぁ」
 よくわかっていなさそうにそう言うルシール。
「恐竜がいた時代と私達人間の時代では星空はまた違ったらしいですしね」
 これは華黒の言葉だ。
 その言葉に、
「うん。もしできるのならば恐竜時代の星空も見たかったなぁ」
 僕が頷く。
「新しい星が生まれては消えていく。その過程を数十年から数千年の時を経て地球と言う小さなステージで変遷していく。つまりロマンだよ」
「………………私……ちっぽけですけど……そんな話を聞くともっとちっぽけに思えてきます」
「ま、星に比べればそうだねー。ステージの問題だよ。人間のステージで見ればルシールは魅力的な女の子だよ?」
 そんな僕の言葉に、
「………………は……はぅあ……!」
 ルシールが顔を真っ赤にしてうろたえ、
「っ!」
 華黒が僕に肘鉄をかましてきた。
 そこにきてようやく僕は自分のうかつさを理解する。
 華黒の渾身の肘鉄にゲホッと咳を吐いて、
「ごめん。安易だったね」
 ルシールに謝る。
「………………いえ……そんな」
 真っ赤になってそう言うルシール。
 華黒はプクゥとフグのように膨れていた。
「……華黒も可愛いよ」
「そんなとってつけたように言われても嬉しくないです!」
「じゃあどうすればいいの?」
「私の唇を奪って『最高の女だぜ、お前』とか?」
「どんなキャラだよそれ……」
 うんざりとそう言う僕。
「なんでルシールにはあっさりと言うのに私にはうんざりと言うんです!」
「妹に向かって真顔で可愛いなんて言わないよ普通」
「こんなにこんなにこんなに可愛い妹がいるのに何で他の女を口説こうとするんです!」
「………………くど……!」
「……口説いてるわけじゃないよ。それに華黒もルシールが魅力的だって昼間言ってたじゃないか」
「それとこれとは話が違います!」
「普通華黒くらいの年齢なら兄なんて鬱陶しい存在のはずなのにね」
「私には兄さんしかいないんですよ!?」
「その解釈が既に間違いだよ、華黒」
「………………くど……口説いて……」
 ワーワーギャーギャーと騒ぐ僕と華黒の隣でルシールが顔を真っ赤にして「………………くど……くど……」と呟いていた。



 そして次の日の夕方。
 僕と華黒はアパートに無事帰った。
「あー、やっぱり我が家が一番だ」
「今、お茶を入れますね」
 玄関でパタパタと小走りしてお茶の準備をする華黒。
 僕はというとアパートの玄関までついてきたルシールの頭を撫でる。
「今回はこれでお別れだね。またね。ルシール」
「………………うん……真白お兄ちゃん」
 頷くルシールを見てから、僕はアパートの部屋に入ろうとして、クイと服の肘先を引っ張られた。
 ルシールだ。
 僕は聞く。
「なに?」
「………………キャンプ……面白かったです……真白お兄ちゃんのおかげで」
「僕も楽しかったよ。ルシールのおかげで」
「………………また会える?」
「いつでもこのアパートに遊びに来ていいよ」
「………………いいの?」
「いいよ。ルシールと過ごす体験が何よりの黄金だからね」
 僕はそう言って笑った。
 ルシールは顔を俯かせて真っ赤になった。

ボタン
inserted by FC2 system