超妹理論

『超妹理論』


 華黒は泣いたのだろうか。
 昴先輩はうまく宥めてくれただろうか。
 それは僕にとって心配事の一つだった。



 華黒と決別した二週間後。
 僕は二週間ぶりに学校に登校した。
 つまりあれから丸々二週間学校を休んでいた計算になる。
「ふわあ……」
 などと呑気にあくびをしながら僕は久しぶりのクラスに入った。
 自分の席に近づいたところで親しきクラスメイトと目が合う。
「久しぶり、統夜」
「久しぶり、と言いたいところだがその前に質問だ」
「何さ?」
「どうなってる?」
「質問が抽象的すぎるよ」
「お前、この二週間何してた」
「実家に帰ってたよ」
「アパートに行っても梨のつぶてだったのはそのせいか」
「なんだ。来てくれてたんだ。ごめんね」
「携帯も通じなかったしな」
「ああ、それもごめん。ちょっと電源切ってたから」
「二週間ってのはちょっとか?」
「僕の認識ではちょっとだよ」
「詭弁だ」
「まぁね」
 それは否定しない。
「それで、どうなってる?」
「以下略」
「……華黒ちゃんがうちに引き籠ってんだが。もう二週間も」
「お邪魔してることには謝っておくよ」
「そんなことはどうでもいいんだ。うちは広いし金もある。そんなことは些細な問題だ」
「うわ、自慢」
「だが事実だ」
「まぁね」
「で、お前はこんなところで何してんだよ。なに華黒ちゃんを放っておいているんだよ……!」
 そう言う統夜の目にあるのは真摯なまでの怒り。
 でもまぁそんなものに付き合う気は……今は無い。
「今はまだ無理だから」
「あ?」
「今の僕が迎えに行っても意味がないんだ。だからもうちょっと華黒のこと囲ってて」
 おねがいかっこはーとまーく、とぶりっ子ポーズでお願いすると殴られかけた。
「暴力反対!」
「……まぁいい。決着、つける気あるんだろうな?」
「一応ね」
 そう言って僕は自分の机に鞄を置くと、教室を出るため歩き出す。
「おい、どこ行くんだ真白。もうすぐホームルームだぞ……」
「サボリ。担任には持病の癪が、って言っておいて」
 さて、第二ラウンドといきましょう。



 そこからさらに二週間後。
 華黒と決別してから実質一ヶ月の時が経った。
 僕は酒奉寺家のインターフォンを鳴らした。
 使用人と応対して、やけにでかい玄関が開くと、そこには酒奉寺昴先輩が立っていた。
 着物姿がやけに似合う。
「あ、お久しぶりです昴先輩」
「久しぶりだね真白くん。一ヶ月ぶりかい?」
「そうなりますね」
 首肯する僕。
「それで? 何しにきたんだい真白君?」
「華黒を引き取りにきました」
 嘘をついてもしょうがないので正直に言ってみる。
 先輩は「はっ」と、おそらくは呆れたのだろう。
「……都合のいいことを言うね。ちょっと意外だったよ。君にそんな鉄面皮な部分があったなんて」
「はぁ。鉄面皮、ですか……」
「一度自分の都合で引き離しておきながら、また華黒くんを求めるのかい? 自分に惚れた女は扱いやすいものだ。その気持ちはよくわかるけど少々ゲスじゃないかい?」
「先輩と議論しても意味はないんですが……」
「今、華黒くんが何をしているか知ってるかい?」
「知るわけないじゃないですか」
「だろうね。一ヶ月も放置してたんじゃあ」
「…………」
 言葉もない。
「部屋を一つ貸してるんだけどね。そこでずーっと日記を書いてるんだよ。延々に。一日中ね。君と出会ってからのことをずーっとずーっと。今日は兄さんに何々してあげた。今日は兄さんが私に何々してくれた。そんなことばっかりずーっとね。さすがに睡眠と食事と手洗いはするよ。勧めれば風呂に入るし、会話も出来る。こっちの質問に返答もするから判断も大丈夫なはずだよ。わかるかい? 彼女はつくづく優秀なんだ。壊れようと思っても壊れられない。君と違ってね。根源的な部分は丈夫なんだ。でも……だから救われない。いっそ壊れて判断がつかなくなれば幸せなんだろうけど……彼女はそれができない。自棄できないんだよ。だから日記さ。自分の中に逃げ込めないから自分の中の大切な部分をずっと紙に記し続ける。目に見て読める形にする。あるいは筆記そのものに没頭する。優しかった君の記憶を手繰ることで何とか自分を守ってる。それが自分を傷つけてるなんて思いもしてないんだろうね。そうやってしか心を守れないから」
「…………」
 そんなことしてるのか、華黒の奴……。
「自分が見えない君と、君しか見えない彼女。互いに補完しあう……まるでパズルのピースのようだけどね……それはあくまで君の立場での話だ。傲慢極まりない考え方だよ。彼女の立場に則って考えるとこれは地獄だ。君しか見えない彼女には君以外の代替がきかないけど、自分が見えない君は君を見てくれるのなら彼女じゃなくてもいいんだ。彼女にとって君は代えがきかないけど君にとって彼女は代えがきくんだ。わかるかい? 彼女のことを積極的だと思ったかい? それはそうだよ。当然さ。だって君が他に大事な人を見つけたら彼女はもういらないんだもの。彼女には君しかいないのに君はいつ離れていくかわからない。しかも当の君は言い寄っても生返事。そりゃ積極的にもなるさ。気が気じゃないからね。君の気が離れたら華黒くんは袋小路だもの」
「…………」
「そこまで追い詰めて、突き放して、壊して、それなのにまた儚い希望を持たせる気かい? 鬼の所業だよそれは」
「儚くなんかないですよ……」
 そうさ。
「儚くなんか……ない」
「とりあえずここは通さないよ」
 昴先輩は玄関の扉によっかかってそう言った。
 マジで?
「通りたいならそれなりの仁義を見せてもらわなきゃ」
 仁義ねぇ……。
 あまり人に見せたいものじゃないけど、しょうがないか。
 一カ月もの間、華黒を放置したことは事実だから。



 だだっ広い迷路のような酒奉寺家を、中庭を基準に歩き回る。板張りの床に天井。中庭では茶会が開かれている。外に目を向けると広く深い竹林。隅々まで行き届いた和のギミックが、この屋敷には生きている。
 十と数分かけて僕はやっと華黒が間借りしているのであろう部屋に辿り着いた。
 深呼吸。
 それからコンコンとノックをする。
「華黒……僕だよ?」
「…………」
 返事はない。
「一ヶ月ぶり。待たせたね」
「…………」
 返事はない。
「華黒……? 開けるよ?」
「開けないで!」
 今度は返事があった。
「華黒……?」
「もういいんです……放っておいてください……」
「…………」
「知っていましたよ……私が兄さんを縛っていることくらい……」
「……それは……」
「だってしょうがないじゃないですか。それは惚れますよ。恋しますよ。兄さんは私をあの地獄から救い上げてくれた王子様だったんですから……」
「…………」
「他にいなかったんですもの……。あいつと兄さんしか世界にはいなくて、あいつはあんな奴だったから、それは兄さんに惚れますよ。そうでしょう……?」
「…………」
「……だからもういいです……」
「何がいいのさ?」
「兄さんは……他に好きな人を作ってください。自分のためじゃなくて……兄さんのために兄さんを愛せる……そんな人……。私なんかじゃ全然ない……そんな人……」
「……じゃあ……華黒はどうするの?」
「気にしないでください」
「駄目だ……」
「忘れてください」
「駄目だ……!」
「私に縛られないでください」
「駄目だ!」
 僕はドアノブを掴む。
 扉を開けようとして、
「開けないでっ!」
 華黒の言葉で、とっさのところで思いとどまる。
 ドアノブを離す僕。
「もう構わないでくださいよ……乱さないで……もう兄さんに拒否されたくないんです……」
「だからって今の僕から逃げて過去の僕にすがるのかい」
「いいじゃないですか……私の勝手じゃないですか……」
「今の僕は他人に押し付けて、過去の僕の記憶を何度も再生しながら残りの一生を生きていくのかい」
「それ以上言わないで!」
「……っ!」
 華黒の感情が破裂する。
「責めないでくださいよ! 私を責めないで! 重いんですよ! 兄さんの言葉は重過ぎるんです! いいじゃないですか! 辛いんですから! こんな気持ちと戦いながら生きてなんかいけませんもん! 当たり前じゃないですか!」
「……それは……」
「もう構わないでください! 兄さんなんか……!」
 それ以上言わせないために僕は、
「結婚しよう」
 奥の手を放った。
「……っ!?」
 扉越しに、華黒が息をのむ気配が伝わってくる。
 よし。
 通じた。
「法的には無理でも……二人だけで結婚しよう」
「…………」
 華黒は答えない。
「たしかにこれまでの僕の態度は残酷だった。実のところ知ってた。でもね。僕だって子供なんだ。未成年なんだ。華黒の将来どころか自分の将来でさえまだ支えきれないんだよ。華黒を僕から自立させるための手段なんて突き放すくらいしかないんだよ。華黒を一生支える、なんてできるかもわからないことを言えはしないんだ。誓えはしないんだよ」
「だから……!」
「だから!」
 華黒の言葉を塗りつぶす。まだ僕のターンだ。
「だから今ここに誓う。もう絶対華黒を離さない。突き放すんじゃなくて、一緒に世界に向き合おう。できないかもしれないけど一緒にそれを目指して生きていこう。華黒一人に望むんじゃなくて僕が華黒の手を取って世界を見せてあげる。絶対に支える。離したりなんかするもんか。例えそれで二人だけの世界が外に広がらなかったら……そのときは華黒の隣で死んであげる」
「にい……さん……?」
「僕と華黒の退学のことは先生を説得して受理してもらった。父さんと母さんにも話した。そりゃ反対はされたさ。僕らはまだ未成年だ。自分の責任を自分で背負いきれないんだから」
「…………」
「でも背負う」
「…………」
「それでも背負う。背負いきれなかったらツケを払う。僕の人生と華黒の人生。どっちも未熟な背中に乗せる。そう言ったら大人に諭された。でも諦めなかった。説得に一ヶ月かかったけど家族にも学校にも話を通した。退学のことは認めてもらったし、家を出ることも認めてもらった。これまで僕らを育てた養育費もだいたい算出してもらって、借金にしてもらった。きっと父さんと母さんのことだからだいぶ少なめに見積もったんだろうけど……いいじゃないか。これで貸し借り無しだ。ゼロから始めよう。どこか遠くの誰も僕らを知らない場所に行って、ボロいアパートの一室を借りよう。学歴は中学校までだからいい職になんかつけないけどアルバイトから始めるんだ。二人で二人だけの生活費と父さん母さんへの借金の返済を全力で稼ごう」
「…………」
「他者の意見を振り切って駆け落ちするんじゃないんだ。過去の恩と未来のリスクを背負って、それを承知で、なお二人で生きていくことを誓い合おう。筋を通すってのはそういうことだ」
「…………」
「もう全部の準備は整ってる。もちろん華黒が拒否するのならこの話はご破算だけど、それも皆承知してくれてるよ。何もなかったことにもできる。だから気負わずに“はい”か“いいえ”だけで答えて……」
「…………」
「結婚しよう」
 ガチャリと音がしてドアノブが回る。
 キィーと蝶番が鳴いて扉が開く。
 扉の向こうには……艶やかな黒の長髪を持った少女がいた。宝石のような綺麗な瞳を持った少女がいた。花弁のように儚げな唇を持った少女がいた。世界の誰よりも美しい、芸術品のように整っている少女がいた。
 僕の最愛の、自慢の妹がいた。
「うう……うえ……うえええ」
 華黒は泣いていた。泣きじゃくっていた。
 僕が囁く。
「華黒、おいで」
「うえええええええええん……!」
 泣きながら華黒は僕の胸に飛び込んできた。
 僕は優しく抱きとめる。
「結婚しよう」
「はい……!」
「結婚しよう」
「はい……!」
「結婚しよう」
「はい……!」
 自然、僕の瞳からも涙があふれる。
 ああ、やっと捕まえた。
「華黒、好きだよ。愛してる……!」
「私も……! 私も……兄さんのことが……んんっ!?」
 華黒の言葉をさえぎって僕は華黒にキスをした。
 顔が熱い。
 心の温度が熱い。
 まるで茹でたような熱さだ。
 けれど不思議と苦しくはない。
 締めつけられるような心地なのに、それ以上の解放感が僕の心を浮かす。
 キスし終えて、華黒が涙で溢れる瞳を僕に向ける。
「夢じゃ、ないんですね……?」
「僕はここにいるよ」
 強く抱きしめる。
「夢みたい……」
 強く強く抱きしめる。
 今は二人だけの空間になったここに、
「はっはっは。はははははー」
 どこまでもわざとらしい第三者の笑い声が突き刺さった。
 華黒を抱いたまま声のした方を見ると、着物姿の昴先輩がいた。
「先輩……」
「酒奉寺昴……」
 僕と華黒が先輩を呼ぶ。
 先輩は問うような瞳を僕らに向けてくる。
「君たち、本気かい?」
「本気です……。ていうか冗談でこんなことしませんし言えませんよ」
「一ヶ月かけての、それが答えかい真白くん?」
「はい」
「迷いは?」
「捨ててきました」
「誰も祝福なんてしないよ?」
「知ってます」
「覚悟は……聞くまでもないね」
「ええ。そのための全ては用意してきました」
「そうかい」
 くくっと笑う昴先輩。
「じゃあ私からのはなむけだ。受け取るといい」
 そう言って先輩は何かしらの書類を僕らの方へと投げ渡す。
 華黒が僕に抱かれたまま器用に書類を受け取った。
「なんです、これ?」
 聞く華黒に、
「DNA鑑定の結果さ……」
 先輩が答える。
「……玄冬巌と玄冬華黒の、ね」
「えっ?」
 それはどういうことか、と僕が聞くより先に、
「えっ! 本当に!?」
 書類を見た華黒が驚いた声を出した。
 昴先輩がニヤリと笑ってこう言った。
「きっかけは些細な勘違いなんだ。真白くんが自我を得る前に一度玄冬巌に捨てられて孤児になったこと。再度玄冬巌に連れ戻されたときには既に華黒くんがいたこと。だから君たち二人は自分たちが等しく玄冬巌の子供であり兄妹であるのだと誤認した」
「誤認……ですって?」
「そう、誤認だ。書類を見た華黒くんはもうわかっただろう?」
「はい。私と玄冬巌との間に血縁関係は存在しない」
 …………。
 ………………。
 ……………………。

 ……………………え?

「えええええええええ!?」
 僕の絶叫。
「それって……!」
「華黒くんは自我が形成される前に玄冬巌に引き取られた孤児だったんだよ」
「ってことは僕と華黒は……!」
「本当の兄妹じゃないってことですよ! 兄さん!」
 歓喜の声でそう言うと、華黒は抱きついたままの僕を勢いで押し倒した。
「兄さん兄さん兄さん!」
 押し倒した姿勢のまま、甘えるように僕の胸に頬をこすりつける華黒。
「っていうか昴先輩! 僕と華黒に血縁関係がないってわかってたんなら何でその時点で言ってくれなかったんです! 僕のお膳立て全部パーじゃないですか!」
「馬鹿を言いたまえ。天は自ら助くる者を助く。少なくとも真白くんがアクションを起こさない限り私はこの事実を伏せたままだったろう」
「気まぐれなデウスエクスマキナですねー……」
「別にいいだろう? 今、君たちは幸せなのだから」
「まぁそうですけど……」
 なんだよー。
 本当の兄妹じゃないのかよー。
 僕の覚悟やお膳立てはいったいどうしてくれるんだ。
「兄さん兄さん兄さん!」
「はいはいはい。なぁに、華黒?」
「大好き!」
 そう言って華黒は僕にキスをした。



 その後のことを少し語ろう。
 僕が準備したお膳立ては全て白紙に戻った。
 学校に平謝りして退学の件も取り消してもらったし、借りるつもりだったアパートも「やっぱり借りません」と無茶言った。
 結局全ては元通り。
 休日に、いつもの2DKのアパートで、僕はだらだらと時を過ごす。
 華黒はちょっと不満げだ。
「これでまた兄さんと交わるためには後数年待たなきゃいけなくなりました……」
 軽く聞き流す僕。
 と、ピンポーンとインターフォンが鳴る。
 僕と華黒が目を合わせる。
「誰でしょう?」
「誰だろうね?」
 僕は玄関まで歩いて、扉を開ける。
 客は、
「お兄様、遊びに来ました」
「やあ真白くん。遊びに来たよ」
 白花ちゃんと昴先輩だった。
 白花ちゃんは白いワンピース、昴先輩はロングティーシャツにジーパンだった。
「上がるよー」
「上がるよ」
「……どうぞ」
 断る理由もないのでとりあえず上がってもらう。
 白花ちゃんと昴先輩を連れてダイニングに行くと、
「…………」
 待っていた華黒が明らかに不機嫌になった。唇がへの字に曲がっている。
 そこまで嫌わんでも、とも思うけど……まぁ仕方のないことだろう。
 僕は冷蔵庫から麦茶を取り出しコップを四つそろえると、コップを麦茶で満たして各人に配る。
「それで? 今日は何しに来たんです?」
 聞く僕に、
「だから遊びに来たんだよ」
 そう答える白花ちゃん。
「と、いうわけでデートしようねお兄様」
「何がというわけで?」
「いとこ同士、愛を育むラブチャンスだよ!」
「そういや白花ちゃんとはいとこになるんだっけ」
「そうだよー」
 のんきに肯定する白花ちゃん。
 華黒から怒気のオーラが放たれ始めたけど、とりあえず無視。
「それで? 先輩は何しに来たんですか?」
「私も白坂家と一緒だよ。真白くんをデートに誘いに来た」
「華黒は諦めたんですか」
「いや? ただ先に真白くんをからめとった方が有効だと思ったまでさ」
「はあ……」
 困っちゃって頭をガシガシと掻く僕。
「……いい加減にしてくださいよあなた方」
 華黒が唸るような声を絞り出す。
「兄さんは私の恋人です! 負け犬は潔く諦めて帰りなさい!」
「略奪愛も一つの愛の形だと思うの」
「大丈夫さ華黒くん。ちゃんと君のことも一緒に可愛がってあげるから」
 会話になってないぞお三方。
 ギャーギャームキーと口論に発展していくかしまし娘を無視して、僕はキッチンへと行きお湯を沸かし始めた。
 紅茶を入れるためだ。
「兄さんは私のものです!」
「お兄様は渡さないから!」
「真白くんは私と結婚するんだ!」
 ああ、もう、どうにでもしてくれ。

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