海は雄大だ。 雄々しく。 ただ雄々しく。 猛る波。 香る潮風。 深遠なる青。 夕方には、太陽さえも飲み込むその大きさに心うたれる者も多かろう。 夜の静寂を彩る波の音に心うたれた者も多かろう。 海は雄大だ。 あらゆる生物は海に生まれて海に死す。 雄大な海は多くの命を抱えて今日も明日もめくるめく。 海とは全ての命の母であり、それはつまり命が見る原風景そのものなのだ。 ……なーんちゃって。 「兄さん、早く来てください。海です海」 「シロちゃんシロちゃん、海だよ海」 「真白くん真白くん、海だ海」 呼ぶ三人の乙女に手を振り返しながら僕はえっちらおっちら準備体操を欠かさなかった。 しかしそれにしても壮観ここに極まれりといった具合だ。 もともとデルモ体系な昴先輩の、その体をひきしめる黒のビキニ。可憐という言葉が素で似合う百墨さんちの華黒ちゃんは花柄のビキニとパレオ。そんな学校のアイドル二人の水着姿だけでも「ごっちゃんです」なのに、さらにピンクのワンピースを着たナギちゃんまで加えた最強パーティに対し、男は僕だけ。 その三人ともが僕に少なからず好意を抱いてくれているってのは一体どういう状況なんだろね。 しかもプライベートビーチで四人きり。 「まぁどうでもいいかぁ……」 わりかし投げやりに思考を捨てて、ついでに準備体操を終えると僕は海に飛び込んだ。 飛び出せ青春、みたいな? * 僕はプカプカと浮き輪に揺られている華黒のところまで泳いでいった。 浮き輪を掴んで、顔を上げる僕。 濡れた漆黒の髪をすきながらキラキラと光る瞳で僕を捉える華黒。 「兄さん兄さん。海です海」 「それはさっき聞いた」 「舐めてみると本当にしょっぱいんですよ海の水」 「どこか嬉しそうだね?」 「兄さんと海に行けるなんて思ってもみませんでしたから。どうですか? 私の水着、可愛いですか?」 「今さら聞かなくても水着専門店で僕が選んだやつでしょ」 「それでも今聞きたいんです。水着、似合ってますか?」 ……あんまりこういうことは軽々しく言いたくないんだけど。 僕は渋々口を開いた。 「うん、すんごく似合ってる。可愛いよ華黒」 「はうあっ!」 華黒は胸に手をあてて、浮き輪の上でのけぞった。 「……キュン死しそうです、兄さん」 あーはいはい。 うちの妹は三文安くできているようで。 * 少しだけ泳ぎ疲れて浜辺に戻ると、両手でスイカを抱えたナギちゃんが近寄ってきた。 「シロちゃんシロちゃん……ビーチフラッグススイカ割りしよっ」 「ていうかスイカなんて持ってきてたんだ。用意がいいね、ナギちゃん」 「うーうん、使用人に無茶言って買ってこさせたの」 うーん……ブルジョワジー。 ところで……、 「ところで……ビーチフラッグススイカ割りって何?」 「名前の通りビーチフラッグスとスイカ割りの融合競技だよ。二人がスタート地点で木刀を中心に三十回まわって平衡感覚を失った後で十メートル先にあるスイカを割るというゲーム。上級者編になると相手への攻撃が有りだったり、目隠しをしてから始めたりするのよ。かなりカオスな内容になっちゃうけど」 さもあろう。 「そこはかとなく不安を感じるスポーツだね」 「先にスイカを割った人の勝ちになるのよ。では、はい、シロちゃん」 そう言って僕に二本の木刀の内の一本を渡してくるナギちゃん。 「え? 僕もやるの?」 「シロちゃんとやりたいの」 はあ、まぁ別にいいんですけどね。 僕とナギちゃんは十メートル先のスイカをにらめつけて、それから足元の砂場に木刀をたてて、柄に額を当てると三十回グルグルと木刀を中心に全力で回った。 三十回まわりきったのは二人同時。 僕とナギちゃんは同時にスイカめがけて駆け出した……と思ったらナギちゃんは早々に平衡感覚を失ったらしく飲兵衛のようなふらつく足取りだった。 勝った、と思ったのもつかの間、僕のふらつきを狙ってナギちゃんが木刀を僕の足に引っ掛けた。思いっきり転ぶ僕。 「何するのさ!」 「こういう邪魔もビーチフラッグススイカ割りの醍醐味なんだよ。シロちゃんが甘いのだー」 勝ち誇った顔とは裏腹にまだふらつく足でスイカへと歩を進めるナギちゃん。 今度は僕が木刀でナギちゃんの足を引っ掛けた。 顔から砂場につっぷすナギちゃん。 「何するのよシロちゃん!」 「こういう邪魔もビーチフラッグススイカ割りの醍醐味なんだってさ。ナギちゃんが甘いのだー」 結局スイカを割れたのはその五分後だった。 * 僕はパラソルの影でスイカを食べながら、浮き輪でプカプカと波に揺られている華黒を眺めていると、昴先輩が声をかけてきた。 「真白くん真白くん、あそこに島が見えるだろう」 そう言って先輩が指差した先には離れ小島があった。プライベートビーチの砂浜……つまりここからなら五百メートルといったところだろうか。 「あそこまで遠泳しようじゃあないか」 「いいですね。それ」 僕は二つ返事で頷く。 昴先輩は不敵な笑みを浮かべてこう言った。 「どうせだからレースでもするかい? 勝った方が華黒くんを好きにできるとか」 「その条件だと僕は迷わず負けますよ」 「それは嘘だね」 「…………」 ……まったくこの人は、どこまでわかって言ってるのやら。 とまれレースの話はおじゃんにして、僕と先輩は純粋に遠泳を楽しんだ。 離れ小島についたのは先輩が最初で僕が次点。 さすがに万能人間酒奉寺昴は泳ぎも得意らしい。 先輩の黒ビキニのクロール姿が凛々しく見えたことは僕の記憶の中だけに収めておこう。 先輩は小島の岩場に腰を下ろして、それから僕も座るようにと促した。 素直に座る僕。 「ここなら誰にも聞かれずにすむね」 と、先輩は海を眺めながら前置きをした。 「何のことです?」 と、聞く僕に、先輩は、 「すまない」 と謝った。 「…………何のことです?」 「君達兄妹の事情を知ってしまった」 「…………」 あら……まぁ……。 「正直なところ興味本位でなかったかといえば嘘になる。だからすまなかった」 「きっかけは何です?」 「最初は単に君が病院にかかっている理由を調べるつもりだったのだが芋づる式に過去の事情がくっついてきた」 「でしょうね」 切っても切り離せないものだ。 「余計な詮索をしてしまった。本当にすまなかった」 「いえ、構いませんよ。面白くもない話を先輩の耳に届けてしまって、こちらこそごめんなさいとしか言えません」 「もしかして私を助けようとした時も“発症”したのかい?」 「ええ、まぁ」 「そうか……それは……いや、そうだろうな……」 「華黒には言ったんですか?」 「いくら私でもそれは恐い」 「嘘ですね」 「嘘だがね」 言って先輩は苦笑した。 * 夕食の時間まで泳ぎに泳いだ僕らが、着替えて、ナギちゃんの別荘に入ったのは十九時過ぎ。別荘は壁の白が涼しげな西洋建築まるだしの家だった。玄関から入るとメイドさんが「お帰りなさいませご主人様」と冗談のようなことを真面目くさって言いながらやってきて、僕らの荷物を肩代わりしてくれた。 聞けば今専属シェフが今日の夕食を作っているらしく、本当に至れり尽くせりだ。 並べられた料理の数々はどれも舌鼓を打ってしまいそうなほどの出来で、僕は幸福の極みを味わう羽目になってしまった。 フランス料理になったフォアグラ。 本場イタリア仕込みのボンゴレ。 ブイヨンのスープ。 どれ一つとっても僕のお小遣いじゃまかなえないレベルの料理だ。 おのれブルジョワジー。 そしてありがとうブルジョワジー。 豪華な夕食を終えた後……、僕らはリビングでくつろいだ。 リビングといっても常識より数倍広いリビングだ。 やることもないのでソファに寝転がってダラダラしていると、頭にタオルの束を乗せてバランスをとりながらナギちゃんがこっちへ近づいてきた。 頭の上のタオルを一枚とって僕に渡すナギちゃん。 「はい、シロちゃん」 「はぁ、どうも」 素直に受け取る僕。 「ここのお風呂ね、温泉になってるんだよ」 「あ、やっぱり?」 いい加減ブルジョワ発言にも慣れてきた。 「いっしょに入ろ♪」 「うん、いいよ」 僕がそう答えると同時に、華黒が盛大にお茶を吹いた。 「……なにやってんのさ、華黒」 「兄さんこそ! 何を言ってるんですか!」 「何ってお風呂に入ろうって話だよ」 「でもい、い、い、一緒にって……」 「そうだね」 「私も一緒に入ります!」 「何で!? 駄目に決まってるでしょ!」 「でも楠木さんとは入るって!」 「ナギちゃんは子どもだから別に……ねえ?」 「そんな例外は認められません! 私も一緒に入ります!」 「華黒、貞淑に」 「静粛に、みたいに言わないでください!」 激昂する華黒の近くで本を読んでいた昴先輩がこう提案した。 「皆で入ればいいじゃないか」 ……うそん。 * 嘘じゃなかった。 本当に四人で入ることになった。 華黒と昴先輩はそれぞれ花柄と黒のビキニを着て、僕も水着を着ての入浴となった。 うちの数倍広い浴場でゆうゆうと足を伸ばして入れるのは、それだけで有り難味があるというものだ。 「裸でもいいですのに」 という華黒の提案は当然ながら全力で却下。 何を考えているんだか、うちの妹は……。 「いい湯だな〜、と……」 露天風呂から夜空を眺め、幸せの溜息をつく。となりでは昴先輩が惜しげもなく体のラインを晒していて、もう一人の僕が少し元気になってしまったりして。 「シロちゃ〜ん」 「はい?」 「髪洗って〜」 「はいはい」 言って湯船からあがり、ナギちゃんの背後に座るとワシャワシャと頭をかいてやる。 「兄さ〜ん」 「はい?」 「背中を流してもらえますか〜?」 言ってトップスをはらりと脱ぐ華黒。乳房が見えようとした瞬間、僕は視線を逸らす。 「だから華黒は! そういうのはやめてって言ってるのに!」 「兄さんになら私見られたって……」 「僕が駄目なの!」 まったく。 「では私が洗ってあげよう」 と言ったのは昴先輩。すかさず華黒の背後を取り、セクハラをかます。 「きゃ! どこを触って……!」 「いいではないか。減るものでなし」 「そこは兄さん専用の聖域です! 触るな、この……!」 ……聖域て。 「ふはははは、私のゴッドフィンガーにかかれば全ての子猫ちゃんたちはメロメロだ」 「だから触るなと……!」 もう勝手にやればいい。 僕はシャワーを掴んで、ナギちゃんのシャンプーを流してあげた。 * 風呂からあがった後、僕は体を冷やすために夜風にふかれに外に出た。 ナギちゃんから渡された甚平を着て、下駄をはいて、砂浜に出る。 波の音を聞きながら砂浜を歩く。 夜空を見上げれば見事な天の川。 「あれがベガ、あっちがアルタイル、あそこがデネブ」 夏の大三角を指でなぞる。 ベガが織姫。 アルタイルが夏彦。 駄目カップルの代表だ。 織姫も夏彦も結ばれてからというもの夫婦生活にうつつをぬかしてすっかり怠け者になり天帝の怒りをかったという。 「ジュバ、アンタレス、シャウラ……」 あれらはさそり座だ。 冬の代表的な星座であるオリオン座の、その天敵。 さそりが苦手なオリオンはさそり座が現れると西の空へと逃げていくんだそうだ。 気が遠くなるほど離れた星々も、地球から見れば天球に収まってしまう。 まぁ元々アステリズムは天動説のイメージから派生したものだから当たり前といえば当たり前なのだけれど。 夜風が吹く。 風にゆられている髪を、かきあげる。 「兄さん」 呼ばれて振り向けばそこには華黒が。 着替えは使用人さんが用意してくださった浴衣姿だ。 「こんなところにいたんですか。少し探してしまいました」 「ナギちゃんと昴先輩は?」 「屋内で卓球をやっていますよ」 「そっか……」 まぁ昴先輩なら子ども相手に本気にはなるまい。 華黒がとてとてとこちらに近づいてきて、僕のすぐ横に座る。 それから僕を見上げて言う。 「座りませんか?」 「そうだね」 特に反論もなく僕も座った。 華黒が肩を寄せてくる。 「二人きりですね」 「そうだね」 僕は抵抗しなかった。 華黒の髪からシャンプーの香りがした。 「いい雰囲気だと思いませんか?」 「否定はしないね」 夜の砂浜で肩を寄せ合う男女。 シチュエーションとしては完璧だ。 「キス、しませんか」 華黒が言う。 「しない」 僕が断る。 「照れなくてもいいんですのに……」 「照れがあるのは否定しないけど、重要なのはそんなことじゃないよ」 「私が兄さんを好きで、兄さんが私を好きで、それで他に何の資格を求めるというんですか?」 「華黒のそれは幻想だと僕は思ってるから、かな?」 「私はたしかに兄さんを愛していますよ?」 「僕は華黒に僕以外の人も見てほしいんだ」 「……他人は恐いです」 それはそうだろうけどさ。 「僕だって他人だよ」 「兄さんは例外です」 「…………」 僕は何も言わずに、座ったままで華黒から少し離れた。 それから砂浜の、僕と華黒の間に、指で線を引いた。 そして言う。 「ここに線を引こう、華黒」 「…………」 「境界線だ。僕は華黒の誘惑には応じない。華黒の兄であり続ける。そして華黒も……僕の妹であり続ける。これはそういう線だ」 「…………」 これは宣誓だ。 「華黒、好きだよ。でも……愛せない」 「…………」 泣くかもと思ったけれど、華黒は吐息をついただけだった。 「……そうですか。兄さんの言うことはよくわかりました」 「…………」 「私、先に部屋に入ってますね」 そう言って華黒は立ち上がった。 |