超妹理論

『白の歪みU』


 昔から「美女は命を削る鉋である」なんて言ったりする。
 まぁ戦後の歪な平和主義を謳歌する法治国家日本においても男女のもつれという奴はしばしば血を見ずにはすまない事態になったりして明日の朝刊をにぎやかしたりすることもある。
 で、まぁ……つまり何が言いたいかと申しますと……、
「どういう状況ですか? これ……」
「うむ、まぁ痴情のもつれの弊害という奴だね」
 目の前の危機に対してあっさりとそう言う昴先輩。
 
 ……順序良く行こう。
 
 発端は先輩の一言だった。
「雑貨屋に連れていってあげよう」
 引き続きデート(暫定)の続き。
 怪しげでイリーガルな場所へのエスコートをことごとく断った僕に対して、妥協案として雑貨屋を選んだ昴先輩の決定は、百歩も譲れば良心的な判断だったと言えるだろう。なにやら口に入れるとお花畑が見える観葉植物だとか、ペロリと舐めるとゴーゴーヘブンな切手などが売られている雑貨屋らしい。どこが良心的なのかは後の議題とするとして、まぁ僕の貞操という局地的観点においては「安全だろう」とたかをくくり先輩に連れられて雑貨屋を目指した僕らなのだけど……、
「……まさかこんなことになるなんて」
 暗澹な気持ちで呟く。
 目的の雑貨屋はコンクリートジャングルの奥の奥、ビル群の隙間を縫うように確保された裏路地を抜けたところにあるらしい。で、まぁ薄暗い小路を先輩と二人並んで歩いていると、いかにもチンピラ然としたお兄さんがたが何故か僕らを挟み込むように現れた。細い小路の前後に一人ずつ。現れただけならただの通行人ABで終わるのだが、何故か通行人AおよびBはこちらに刺すような視線を送っていた。つまり目を付けられてしまったわけだ。この細い道の、前後を阻まれた形で。前門の虎に後門の狼と言ったところか。運が無いのか、はたまた僕らの知り合いか。ちなみに僕の記憶にはABお二人と照合できる人物像はインプットされていない。
 とすると彼らが用があるのは昴先輩なのだろうか?
 本人に聞いてみる。
「前方と後方のチンピラ然とした男性は先輩のお知り合いですか?」
「いや、知らない顔だよ」
 平然と言う先輩。
 とすると手荒なナンパか、などと推察する僕をよそに、前方のチンピラA――僕がつけた仮名である――は昴先輩に向かって話しかけた。
「よう、こんなところで会うなんて奇遇だな酒奉寺昴……っ!」
「私は君のことなんか知らないのだがね」
 チンピラのすごみにも、さすがの酒奉寺昴は気後れしない。
 そしてやっぱり先輩の関係者のようだ。とても友好的には見えないけど。
「何やら私に用があるみたいだが、できるだけ手早く済ませてはくれないかい? 今は子猫ちゃんと二人きりの逢瀬中でね。横入りは無粋だよ」
 誰が先輩の子猫ちゃんですか、というつっこみは飲み込んだ。場の空気を読んだというより、ある種の自己防衛だ。
 チンピラAが続ける。
「酒奉寺昴……てめぇ、望月あられを知ってるか!」
 望月あられ?
 聞くからに人名ですが……、
「先輩先輩、望月あられって誰です?」
「私のハーレムの一人だよ」
 これまたあっさりと言う先輩に、
「違うっ! あいつは俺の女だったんだよ!」
 先輩の言葉を否定して激昂するチンピラA。
 困っちゃって頬を掻く僕。
「えーと……これってつまり……」
「前方の彼は私の恋人の元カレみたいだね」
 言いにくいことをズバリと言い切りなさる。
 チンピラAが憎々しげに昴先輩を睨みつける。
「違う! あいつは俺の女だった! てめぇが横からかっさらったんじゃねえか!」
 …………あいやー。
「……そんなことしたんですか先輩?」
「いや、まぁ……美少女を見るとつい口説いてしまうものだから。その子の交友関係までは気を回さないね普通……」
「つまり前方のお兄さんの彼女を横取りしたわけですね?」
「まさか男がいるなんて思ってもみなかったから……」
 弁解がましくそう言う先輩。
「…………」
 困っちゃって頬を掻く僕。
 フォロー不可。
「…………」
「…………」
「…………」
 沈黙が降りる。その妙な間を破ったのは昴先輩だった。前後のチンピラを交互に見据えてから口を開く。
「それで? 結局何用なのかなムサい男諸君?」
 ……僕も男なんですが、という主張は後ほど。
 チンピラAは先輩に挑発に真っ向から答える。
「てめぇがもし自分の恋人を他人にかすめとられたらどうするよ?」
「そいつに制裁をくわえた後でそいつの恋人をかすめとるね」
 ためらいもなく言い切る先輩。ここまで言えるといっそ清々しい。
 チンピラAはニヤリと笑うと、
「じゃあ俺がてめぇの前言を再現しても文句はねえな?」
 そんなことを言い出した。
「…………」
 …………。
 …………んっ!?
 僕の思考と言葉の両方がいっぺんに沈黙する。
 つまりチンピラAが言っている内容は「自分の恋人を昴先輩に横取りされたから、今度は俺が昴先輩の恋人をムチャクチャにしてやるぜ」ということなのだろうか? そしてこの場合の「昴先輩の恋人」というのは……まぁ……当然……昴先輩の隣に立っている可憐なゴスロリ少女……なのではないかなぁ……なーんて嫌な予感がしたりして。あ、あはは……まさか……昴先輩の痴情のもつれの尻拭いとして僕が贖罪対象なんて……そんな馬鹿な……などと現実逃避気味な楽観論を考えていた僕の首元に、
「おい、動くなよ可愛い譲ちゃん。玉の肌に傷がつくぜ?」
 ナイフがあてられた。煌めく剣先。ガチ刃物。後方を陣取っていたチンピラBがいつの間にやら僕との距離を詰めていて、なおかつ物騒な刃物で脅すときたもんだ。これでは完全に人質である。案の定チンピラAがいやらしい笑みを浮かべて勝ち誇る。
「おっと抵抗するなよ酒奉寺昴。お前が動くと大事な大事な嬢ちゃんが傷物になるぜ? もっとも……」
 と、そこでチンピラAもまた懐からナイフを取り出す。
「抵抗しなけりゃお前自身が傷物になるがなぁ……」
 そう言ってサディスティックに笑うチンピラA。
 僕は首元のナイフを気にせずジト目で先輩を睨む。
「どういう状況ですか? これ……」
「うむ、まぁ痴情のもつれの弊害という奴だね」
 相も変わらずしれっと言う先輩。
 しっかし……どうしたものか、この状況。
 未来その一、僕が抵抗すればチンピラBにナイフでズブリ。
 未来その二、昴先輩がチンピラAの制裁に抵抗すればやっぱり人質の僕がズブリ。
 未来その三、もし昴先輩が抵抗しなければ僕にズブリは無くなるけど、先輩がズブリで、そのうえ僕はチンピラ二人に生贄ワッショイ。
 あれー?
 フローチャートが全部バッドエンドまっしぐらなんですけど?
「どうするつもりですか先輩?」
 とりあえず対策を聞いてみる。先輩は顔色一つ変えずにこう言った。
「私の事情で私のかわい子ちゃんを傷物にするわけにはいかないね」
 ……なかなか真摯な意見だけど反論したい箇所がちらほら。
 とまれ、
「とまれ……巻き込まれてしまった形の真白くんの保護が最優先であることは譲れないね。そのために真白くんを脅している粗野な木偶から片付けることにしようか」
 言うが早いか昴先輩は一陣のつむじ風となった。チンピラBが反応する暇もない。急激に空中で軸回転したと思いきやチンピラBのナイフを空中回し蹴りで払い落とし、そこから器用にも空中で再度身を捻って回し踵蹴りをチンピラBの顔面にお見舞いする。打撃において最も威力の高い踵蹴りに、回転による遠心力と全体重を乗せた飛び蹴りが加わった高等複合技だ。その威力、推して知るべし。
「……っ!」
 案の定、不快な破壊音がチンピラBの顔面から聞こえてきたけど、まぁ神の造形物たるパーフェクト超人酒奉寺昴に喧嘩を売ったのだからこれくらいは甘んじて受けるべきだろう。
 そして……無論それを静観するチンピラAでもなかった。
「てめっ! 酒奉寺ぃ!」
 チンピラBをのされて激昂したチンピラAがナイフをかざして昴先輩へと襲い掛かる。先輩はアクロバティックカンフーの弊害からか着地の際にバランスを崩していた。とても今すぐ振り返って対処、なんてことはできそうもない。あと半秒もあればナイフは昴先輩に深々と突き刺さるだろう。
 ジャア、ドウスル?
 僕はこの状況を傍観するのか?
 知己が傷つくのを静観するとでも?
「……まさか」
 自虐的に笑ってしまう。
 そんなこと……欠陥したALUには土台無理な相談だ。
 僕は“発症”する。
 視界が赤く染まり、聴覚は静寂に支配され、感覚は遮断されて外的刺激を受け付けなくなる。そして僕は……リミッターのはずれた身体をフルに使って最速で疾駆した。昴先輩とチンピラAとの間に一瞬にして割り込み、振り下ろされたチンピラAのナイフを右手で受け止める。
「――――っ!?」
 昴先輩の悲鳴は聞こえない。
 ナイフは僕の右手の平を易々と貫通して右手の甲から突き出てきたけど、生憎と今の僕には痛覚がない。ナイフで致命傷を負おうと尺骨動脈が切断されようと問題にならない。とりあえずナイフに刺された右手を無視して、僕は右足を垂直に跳ね上げた……もちろん全力で。その蹴りはちょうどよくチンピラAのアゴに炸裂して彼を仰け反らせる。僕はこれまたちょうどよく振り上げた右足を利用して、仰け反った彼の鳩尾目掛けて踵落としを敢行した……もちろん全力で。彼が白目をむいて悶絶したけど……まぁ気にしないことにしよう。
 これでABともにノックアウト。
 対してこちらの被害は僕の右手にナイフが刺さっただけで昴先輩は無傷。全くもって損害軽微。僕の右手から滝のように大出血している光景はいっそシュールだった。バー『天竺』での応急処置で巻いた右手のガーゼと包帯は、その多大な出血によって真っ赤に染まってヒタヒタになった。
 昴先輩が先輩らしからぬ焦った様子で僕のほうへと歩み寄る。
「真白くん! ナイフが……っ! ナイフがっ!」
 そう言いつつ……正確には僕が唇を読んでいるのだけど……先輩は僕の右手のナイフを引き抜こうとする。僕は慌てて先輩の軽挙を止める。
「今ナイフを抜かれると逆に出血がひどくなるのでそのままにしておいてください」
 ナイフが刺さったままの右手をひらひらと振りながらそんなことを言う僕。
 昴先輩が心配そうに僕を見つめる。
「痛く……ないのかい?」
「ええ、今は痛覚が働いていませんので」
 正直に答える僕。
「それより昴先輩……救急車かタクシーを呼んでくれませんか? ここらの近くの大学病院に僕と華黒が懇意にしている担当医がいるんです。そこで傷を塞いでもらわないと……」
「あいわかった。すぐさま手配する」
 そう言って昴先輩は携帯電話を取り出すと、被害者の搬送と、警察を呼び出して加害者を拘束することを、並行してやってのけた。
 僕は右手から血をダラダラ垂れ流しにしながら大学病院まで運ばれた。
 

 
 とりあえず縫合手術は事なきに終わった。
 僕は患者衣に着替えさせられ即日入院。
 今は病院のベッドの上でのんびり緑茶を飲んでいる。包帯だらけの右手が使えないため左手だけで湯飲みを持たなきゃいけないのが難点だけど。
 で、僕の担当医の花岡先生がベッドのとなりの椅子に座って、それからあてつけがましく盛大に溜息をついた。
「何度か真白くんに呆れたことはあったがね……今回のこれはどういう了見だい?」
「……と仰いますと?」
「君が大怪我をおって運ばれてきたというから慌てて縫合手術に立ち会ったがね。そこで目にしたのは見目麗しいゴスロリ少女だったんだよ。不覚にも胸キュン」
「セクハラです」
「……とまぁ冗談はおいておくとして、だいたいのあらましは酒奉寺昴って女の子から聞いたよ。さっきまで彼女とキャッキャウフフしてて、しかも君はゴスロリ女装まで。なんとまぁよく許したね……“あの”君が」
「それでも着る決心がつくまでに何回か嘔吐しましたけど」
「その先輩とやらに義理もないのだろう? 別にそのタイミングでトラウマと四つに組む必要もなかったと思うけどね」
「うーん……なんだかその場の流れに流されて……」
「で、その後ゴタゴタに巻き込まれて真白くんは真白くんの先輩を助けるために“発症”したと……。君ね、自身の病気を治す気はあるかい?」
「治したいとは切実に思ってますけど心とは裏腹に心が動いちゃうんですよ」
 てへ、と笑って誤魔化すも、花岡先生に無視された。
「なんだかなぁ……」
 などと呟きながら花岡先生はカルテをペラペラとめくる。
「定期的に投薬を続けてどれだけ安定させても、環境や状況が劇的に差し迫れば“発症”してしまう……か。とすればどうしたもんかなぁ……。だいたいにして君の症例が特殊すぎるんだから、こんな悩みが馬鹿らしくなるねぇ……」
「担当医にあるまじき発言ですね〜」
「そんなこと言われても前例のないものだから対処しようもないんだよ。一回サジ投げて近くの病院に盥回しにしてみたけど結局ここに落ち着きやがって真白くんこのやろーう」
 ペシ、とカルテで叩かれた。
 僕は丁寧に言葉を選ぶ。
「ベタな言い方をするなら先生だけが頼りなんです」
「そんなこたーわかっとる」
 憎々しげにそう肯定する花岡先生。
 
 まぁだからなんだ……ていうお話。
 

 
 花岡先生が退室した後。
 僕は患者衣をそのままに院内スリッパをはいて病院の外に出た。
 青々としげる桜の青葉が立ち並ぶ風景の、そのすぐそばのベンチに昴先輩が座っていた。ベンチに対して腰は浅く座っているのに、両足は伸ばして、背中は背もたれに預けきっている。傍から見ても倦怠感が漂ってくる構図だ。先輩が歩み寄る僕に気付いた。
「真白くんか……」
「どうもお騒がせしました」
「いや、こちらの事情に巻き込んだんだ。詫びるべきは私だろう。手術のほうはどうだったんだい?」
「特に致命的にもならず滞りなく済みましたよ。と言っても縫合と輸血をするだけでしたけど」
 そういって包帯だらけの右手を見せる。
「この大学病院には日頃からお世話になっていましてね。自己血輸血用の血を保管してもらっているんです。なもんで、まぁとりたてて騒ぐほどのこってもないんです」
「家族には?」
「今日の夜中辺りに連絡するつもりです。多分華黒が知ったら怒り狂うでしょうからなるたけタイミングをずらさないと」
「愛されてるねぇ……」
「否定はしませんけどね。隣……いいですか?」
「どうぞ」
 言って昴先輩はベンチの端へと寄った。
 僕はできたベンチのスペースに座る。
「…………」
「…………」
 しばしの沈黙。
 先に口を開いたのは昴先輩だった。
「……悪かったね」
「はぁ……何がでしょう?」
「こっちの色恋沙汰に巻き込んでしまって、だ。まさか子猫ちゃんの元カレがナイフまで持ち出してくるとは予想外だったよ。私一人ならどうとでもなったがタイミングの都合君まで巻き込んでしまった」
「ものは考えようですよ。僕の怪我一つで丸く収まったんですから八方万々歳じゃないですか」
「その代わり君が一番泥をかぶってしまった……」
「血はまた骨髄がつくってくれますし傷跡に関しては今更ですよ」
 言って僕は左腕の傷を見せる。
「華黒は怒るでしょうけど、怒られたからって傷跡が治るわけでもありませんしね」
「……前々から思いあたる節はあったんだが、君は君が傷つくことに関して躊躇いがないのかい?」
「…………あー、その辺はちょっと込み入った話になるんでパスさせてください」
「……込み入った……」
「……はい、込み入った……」
 あはは、と笑って誤魔化す。
 話題転換。
「それより先輩こそどうなんですか。手当たり次第女の子を手篭めにする……甲斐性と言えば聞こえはいいでしょうけど今度のように敵すら作ってしまって。そうまでして可愛い女の子を乱獲するってのはちょっと理解しかねますよ」
「可愛い女の子が好きなんだ。美少女は人類の宝だからね。それはルノワールやルイス・キャロルが証明している」
「それだけですか?」
「根源がそこにあることは否定させないよ。でなければ女の子を多数捕まえて手元に置く気力なんて沸いて出るものじゃないだろう?」
「それはごもっとも」
「……無論、それだけだと言えば嘘になるがね」
「と言いますと?」
「最近父が見合い話を持ってくるようになってね……」
「はぁ……お見合い……」
「君も知っているだろうが酒奉寺家は古くからあの一帯の土地を広く所有している名家だ」
 ちなみに、あの一帯、とは僕らの住んでいるアパートや瀬野第二高等学校の周囲一帯のことである。
「資産にものを言わせていくつかの事業にも介入していて、実質あの街の地主と言ってもいい。政治の先生も頭を下げにくる権威あるお家柄だよ」
「それは知ってますけどね……。隣町の似たような名家の白坂(つづらざか)家とは不仲だとか……」
「うん。父も後継者育成に必死だ。老後のこともあるだろうから私か統夜に家を継いでもらいたいかつ贅沢を言えば酒奉寺家を発展させうるにたる家長となってほしいと思ってるのだよ」
「先輩がなるんじゃないんですか?」
「十中八九だろうね。愚弟には私のような卓越した才能がない。故に私が酒奉寺家を継ぐことになるのは決定事項なのだけれど……はあ……」
 先輩が溜息をついた。
「そこで見合い話の話に戻るのだよ」
 ……ああ、なるほど。
「別に女性が家長でもいいと思う僕は庶民なんでしょうか?」
「まぁあまり好まれることではないね。仮にそうなったとしても婿養子を迎える必要が出てくるだろうし」
「中々がんじがらめな世界ですね……」
「親が子を選べないように子も親を選べないからね」
 それは痛いほどわかるなぁ……なんてことをしみじみ思う僕。
 先輩が空に向かって溜息を吐いた。
「来年は受験だ。大学に進学したとしてもこんな遊びが出来るのはあと数年。大学を出るまで……だ……」
「…………」
「可愛い女の子に囲まれて一生を過ごすなんてのが酒池肉林なのは重々承知さ。帝辛の最後を再現されるのも御免こうむる。……けどね……好きにもなれない男と政略結婚をして半生を添い遂げるなど正に悪夢でね」
 まぁ受け入れるしかないんだけどね、と自虐的に笑う先輩。
 僕はポツリと呟いた。
「……逃げるって選択肢はないんですか?」
 昴先輩がほんの少しだけ驚いたように目を見開く。
「それは酒奉寺家のしがらみから、ということかい?」
「はい」
 僕は頷く。
「これはあくまで個人の見解なんですけど……逃げるって言うのは一つの選択肢だと思うんです」
 だって……ねえ?
「押しつぶされる現実に盲目的に立ち向かっていくことは不幸です。逃げるという選択肢を思いつけないのは……あるいは逃げることより救いがない」
「まるで見てきたような言い方をするね」
 それは、もう。
「ともあれ……無理に居座ることなんかないと僕としては思うわけなんですけど……いかが?」
 そんな僕の言葉に、昴先輩は薄く笑った。
 先輩の手が僕の頭に伸びて、優しく撫でられる。
「ありがとう。君は可愛いな……」
 なでなで。
 ほんわかした空気がしばし流れ……それから、
「む、そうか」
 昴先輩が何かを思いついたように口を開いた。
「よく考えればこれはこれで有りだ」
「……何がですか?」
「女装した君を婿に迎えればいい。返す刀で華黒君も手に入れる」
「…………」
 …………。
 いっきに場の空気が沈殿する。
「なんだ。事態はかくも簡単なことじゃないか」
「っ!」
 僕はベンチを立って逃げようとして、
「待ちたまえ」
 ……先輩に襟を掴まれた。
「何故逃げようとする?」
「自分の胸に聞いてください!」
「なに、今日の服装が気に入らなかったというのなら心配するな。ワンピースにチャイナにセーラー、なんとはなればメイド服とて用意してあげよう」
「自分の胸に聞いた結果がそれですか!?」
「夢のある話だろう? ものの大小に関係なく、女の子の胸には夢が詰まっているものなのさ」
「そこを行くナースのお姉さん、急患です。頭に疾患が見受けられる患者がここに」
「……失礼なことを言うね君は」
 言わいでか。

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