超妹理論

『船頭一人にして船山に登る』前編


 チュンチュン。
 そんな小鳥のさえずりを聞きながら僕はぼんやりと目を覚ました。
「ん……」
 いつもと変わらぬ僕専用の個室に一人、簡素なベッドの上に寝転がる自分を発見する。どうやら今日は困りものの妹は侵入してないらしく――というのも稀に僕のベッドに潜り込んでくる事があるのだ――華黒の姿は影もない。なんとなくベッドを広く感じるのは気のせいだろう。
「ふわ」
 あくびを一つ。二、三度寝返りをうった後、どうにかこうにか体を起こしてみる。むくりと上半身だけが意識に反応して起き上がり、下半身はまだ寝ているのかそれほど積極的には動かなかった。図らずも腹筋をする形になってしまったが、まぁよかれ。そのままオットセイのように腕の力だけでベッドを這いずり抜け出すと、今度こそ両足を使って立ち上がる。首だけを動かして目覚まし時計を見る。
 現在五時十二分。
 朝の。
「どうりで眠いと思った」
 つまりは早く起きすぎたのだ。七時十五分に鳴るはずのアラームが沈黙をまもっているのも頷ける。そろそろ一学期の期末テストが近づいている今日この頃、早朝にもかかわらず太陽も既に昇っているのであろう。窓の外はカーテン越しにも明るかった。まだ起き切っていない身体で窓辺にふらふら歩み寄り、僕はカーテンと窓を開く。冴えた大気。白い陽光。朝特有のまどろんだ空気を肺に取り入れ、僕は少しだけ覚醒した。
「よし……」
 そして一つの決心をする。
「今日は学校をサボろう……」
 駄目な決心だった。
 が、決心は決心。
 決心の後は決行だけだ。
 僕はなるたけ音を立てないように自室を出てダイニングを通り過ぎキッチンへと赴き冷蔵庫を開け牛乳を取り出しコップに注いで一息に飲み完全に目を覚ますとまた自室へと戻りティーシャツとジーパンをタンスから取り出し着替えポケットに財布と鍵をつっこむとメモを残して華黒に気付かれないようにそろそろと玄関を通って外に出る。
 携帯電話は持たない。
 
 今日は誰とも話したくなかった。
 

 
「一人にして。探さないで。心配しないで。食事はいらない。それから華黒はちゃんと学校に行くこと」
 そんな「他人に言えた義理か」とつっこまれそうなメモを残して早朝から家を出た僕は、特に目的も目的地もなくふらふらと歩き出した。
 頭の中にある思考は一つだけ。
「どこか遠くへ行こう」
 ただし日帰り限定。
 そんなこんなで八時くらいまでコンビニで時間を潰した後、僕は駅に向かった。それほど大きくも小さくもない我が街の駅には、当然ながら雑多な人であふれていた。まぁ平日なうえに時間が時間だ。当たり前の帰結といえば帰結である。むしろ学校をぶっちぎってフラフラしている僕の方が異端だ。そんな益体もない自虐を考えながら、学校へ向かう電車通学の学生や出勤にいそしむお父さんがたのつくる洪水の中を泳ぐように切符売り場へ向かう。買う切符の行き先は二駅向こうの都会だ。以前に僕は「遊ぶ分には都会に行かなくても駅周りでも問題ない」と言ったことがあるが、あくまでそれは休日の話。平日に学生が私服で歩いていれば補導される場合もある。まぁそんなわけでサボタージュするにはなるたけ都会チックな空間の方がいいのだ。不良の浅知恵である。
 そんなこんなで僕は硬貨を三枚支払って、二駅分の切符を買った。タイミングよく来た上りの電車に乗って都会様々へレッツラゴー。
 

 
 ガタンゴトン。
 電車が揺れる。
 線路に沿って進む電車の車窓から見えるのは、後ろへ後ろへと流れるビルの群像。やたらキンキラと朝日を跳ね返す窓ガラスを側面に所狭しと並べたビルの群は、都会に近づくにつれ多く列挙し、そして見えては視界の端へと消えていく。
 だんだんとコンクリートジャングルの茂みが濃くなる外の風景に辟易しながら、しかし僕は同時に中の満員電車っぷりにも辟易させられていた。おしくらまんじゅうに例えても足りないほどの人口密度が僕の体を押しつぶす。
 ……人、多すぎ。
 まぁわかっていたことではあった。
 平日の朝に都会様々行きの電車が混まないわけもない。これは当然の帰結であり自業自得というものだが、だからといって心から湧き出る憤懣やるかたない感情を抑えることはできない。元々がそんなに人を好きではないタチだ。満員電車ともなればパーソナルスペースの侵略といっても過言ではない。
 不快指数ストップ高。
「早く駅に着けー……」などとぼやきながら電車の振動に揺られていると、
 
 ……さわ。
 
 何やらお尻に変な感触が。
 僕のお尻の触覚が、ジーパン越しに異様な圧力を感じていた。
「…………」
 思わず黙る。
 ……いや、まぁ気のせいだ。
 なんたって満員電車。こんな馬鹿げた密閉空間であれば誰だって手の置き所は困るだろう。僕の後方に陣取っている人がやむなく僕のお尻の近くに手を置いていても不思議はない。その手が何かしらの原因によって僕のお尻に押しつけられているとしても何の問題もない。まったく僕という人間は自意識過剰なのだ。たかだかこの程度のことで危機感を募らせるなんて。過去に三回痴漢にあっているからといって今回がその類だなんて……、
 
 ……さわさわ。
 
「…………」
 えーと、まぁ偶然だ。
 多分……。
 きっと……。
 
 ……さわさわさわさわ。
 
「……っ!」
 ……さすがに、三度目ともなるとちょっと抵抗してしまった。素早く右手を後ろにまわして誰とも知らぬ痴漢の手を掴む。同時に首だけで後ろを振り向き、いったい何処の誰だと顔を確認すると、
「あ……」
「あ……」
 僕と痴漢の声が重なった。
 ガタンゴトン。
 電車が揺れる。
 

 
 僕はむすっとしてコーヒーをすする。
 ここは喫茶店。名をロマンス。
 都会で降りた駅の近辺にポツンとたたずんでいる古びた店だ。
 何故僕が今こんなところにいるかというと……それには少しの説明がいる。
 あの後……つまり痴漢を現行犯で捕まえた後、僕は痴漢と一緒に目的の駅を降りた。本来ならここで痴漢を迷わず警察につきだすことが最善だったのだが、三つの理由から僕はそれを却下した。一つ、被害者である僕自身が男であるということ。いくら女顔とはいえ「男が痴漢の被害にあいました」ではあまりに恰好がつかない。ていうか痴漢を署まで引っぱっていって「痴漢にあいました」と自分の口から言うのがあまりに躊躇われた。二つ、加害者が知り合いだったということ。正直この理由だけならば警察につきだすのもやむなしであったのだが……まぁ知り合いが痴漢の容疑で引っぱっていかれるのを見るのは忍びない。ていうか知人に痴漢をはたらくなという話なのだけど。三つ、加害者が女であったこと。男が女を指差して「この人痴漢です」というのはもはやコントであり、あまりに説得力を欠く。はたして警察はまともに僕の供述を信用するのか。そこはかとない不安があった。以上の三つの理由から僕は痴漢を解放した。
 ……解放したというか何というか。
 いまだもって一緒にいるのだけど。
 まさか痴漢からお茶のお誘いを受けるとは。
 まぁそんなわけで僕は今痴漢に誘われて喫茶店ロマンスでコーヒーを飲んでいるのだった。まる。
 むすっとしてコーヒーをすするそんな僕を痴漢がハッと鼻で笑う。
「なんだいなんだい暗い顔をして。この私とお茶をしているというのに真白くん、君は愛想がよくないね」
「痴漢よりマシだと思いますけど」
 皮肉を言うも、痴漢はフッとキザに微笑むのみだ。
「まぁアレについては私も失態だったと思うよ。まさか私が男に痴漢を働いてしまうなんて……。一生の不覚だ」
「性別は問題じゃないでしょう!? 女ならいいのか!? 女ならいいんですか!?」
思わずつっこんでしまう。
「ふっ……美しい花を見ると愛でたくなってしまうのは私の悪い癖だ。常々直そうとは思っているのだが手がいうことをきかないのだよ」
「悪い癖っていうか犯罪ですけど……」
「しかしまさか男の尻を触ってしまうなんて……何たる失態」
「失態っていうか犯罪ですけど……」
「私の美少女センサーにも狂いはあるのだなと再認識させられたよ」
「狂いっていうか犯罪ですけど……」
「まさかこの私が……!」
「ていうか犯罪ですけどっ!?」
 まったくこの人は……僕の話など聞きゃしないのだ。
「生徒会長が痴漢で捕まったら瀬野第二高等学校過去最大のスキャンダルですよ……」
「しかし美しく可愛らしい少女と触れ合いたいというのは私の人格の根幹を成すものであり……」
「だからといって痴漢は犯罪です。昴先輩ももうちょっと自粛してですね……」
 多分言っても意味ないんだろうなぁとか思いながらも説教をする僕。
 そうなのだ。
 電車の中で僕に痴漢をはたらいてきたのは何を隠そう瀬野二カリスマ生徒会長にしてレズの権化、酒奉寺昴その人なのである。
 ああ、ズツウがイタい。
「いやしかし可愛い娘がいると思ってスキンシップをしてみれば、それが真白くんとはね……。男と女の区別がつかなかった自分の未熟さを悔いるべきか。それとも女性と見間違うほどの真白くんの女性的側面を称えるべきか……」
「……どうせ僕は女顔ですよ」
 ふん、と不快そうに鼻息をついてコーヒーをすする僕。昴先輩はアールグレイを涼やかに嗜んでいた。
「しかしなんだね。今日は平日で学校だろう。真白くん、何故こんなところにいるのかね?」
「その質問、そっくりそのまま返します。昴先輩だって学校でしょ。こんなところで何をしてるんです?」
「私はサボリだよ」
「僕もサボリです」
 僕と昴先輩はためらうことなく言い切った。
「やはり学校周りでは補導にあうからね。サボるなら都会に行こうと思い立ってね」
「僕も同じです」
 言いながらコーヒーをすする。
 昴先輩は皮肉げに笑う。
「本来なら子猫ちゃんたちの相手もせねばならないのだろうけど、私自身のプライベートタイムも大切にしたくてね。たまにこうやってフラリと一人で歩きたくなるんだ」
 どこか物悲しそうに昴先輩は微笑した。
「で? そのプライベートタイムとやらでやることが可愛い娘を見つけて痴漢ですか。先輩、本当にいつか捕まりますよ……」
「いやいや……スキンシップは前戯さ。そうやって私を意識させたことを接点に、じわじわと篭絡する予定だったのだよ。それがまさか……釣れた魚が男とはね。まったく紛らわしいことをしてくれるよ真白くん」
「僕のせいですか? 僕のせいですか? 僕のせいですか?」
「きっぱりと君のせいだ」
「ああ……そう……」
 もう言い返す気力もなく肯定する僕。
 残り少ないコーヒーに砂糖とミルクをこれでもかと入れて、それを一気にあおる。それからカチンとコーヒーカップを受け皿にぶつけた後、口を開く。
「さて、それじゃあお茶にも付き合いましたし……」
 僕は席をたった。
「これでお暇させてもらいますね」
 そう言ってコーヒー代をテーブルに置くと、僕はそのまま喫茶店を出ようとして、
「まぁ待ちたまえ」
 昴先輩に首根っこを掴まれた。
 僕は立ち去ろうとした体勢のまま、首だけで振り向いて昴先輩に抗議に視線を送る。
「……何ですか?」
「いやまぁ特に意味はないが、ここであったのも何かの縁だ。今日は君と遊んでやろう」
 僕はニッコリ笑って即答した。
「結構です」
「ふむ……さて問題はどこに行くか、だが」
「人の話聞いてます?」
「あそこは……平日はマスターがうるさいしなぁ……」
「聞いてませんね? 聞いてませんね?」
「かといってあの場所は男と行きたくはないし……」
 ああもう本気で無視だよ、この人。
「そうだ。あそこにしよう」
「もう何処へでも連れていってくださいこんちきしょう」
 投げやりにそう言う僕。
 昴先輩はそんな僕をじろじろと上から下まで観察して、
「しかし……」
 こう評した。
「君の服装のセンスはダサいを通り越して閉口するね」
「失礼します」
 それ以上何も言わず立ち去ろうとする僕の襟をむんずと掴んで引きとめて、
「まぁ待ちたまえ。今日は特別だ。この昴様直々にコーディネイトしてあげよう」
 偉そうにそんなことを言う。
「遠慮します。金もないですし」
「馬鹿だなぁ君は。酒奉寺家の跡継ぎの財布がたかだか君の着衣程度で揺るぐと思うのかい?」
「いえ、そういうんではなく先輩に関わりたくないので……」
「はっはっは。面白い冗談だ」
「いえ、冗談なんかじゃ……」
「では行こうか真白くん。光栄に思いたまえ? 私と並んで歩ける男なんて世界中探しても君だけなのだから」
 じゃあ解放してください。
 ……なんて言っても聞くわけないのだ。酒奉寺昴という人は。

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