超妹理論

『憲法第二十四条』


 えっちらおっちら……というのは死語だろうか。
 僕は紙の束を抱えてゆっくりと歩いていた。
 場所は学校。時間は放課後。生徒達の帰宅ラッシュは騒々しく、廊下は流れるような人波を作っていた。僕もその流れに便乗して帰宅したいところなのだけど生憎とそれは許されない状況だった。重ねられたパンフ用のプリント百五十枚を両手で支えて職員室へとテコテコ歩く。
「だいたい書類運びなんて委員長の仕事だろうに」
「その委員長に頼まれたんです。部活が外せないので頼らせてもらえないだろうか、と」
 僕の隣を歩くのは同じくプリントを抱えた妹の華黒。僕と一緒に産卵期の鮭よろしく生徒たちの流れを逆さに上る。
「で、引き受けたのね。外面良くするのも一つ大切だろうけど、あまり演技しているのも考え物だと思うよ」
「兄さんが演技しなさすぎるんです」
「正直がモットーだからね」
 自分で言ってて嘘くさい。
「だいたい僕を使わなくても華黒の手伝いをしたがった男子がいっぱいいたような……」
 委員長に仕事を押し付けられていた華黒を横目に、僕は支度を済ませてさっさと帰ろうとしていたのだ。そしてそんな僕とは対照的にクラスの男子は華黒が仕事を引き受けるや否やよってたかって助勢を申し出ていた。
 華黒大人気。
 さすが僕の自慢の妹、これなら僕の手助けも必要ない……と思っていたのだけれど、華黒は脱税の発覚した政治家を取り囲む取材記者達のごときクラスの男子にニコリと笑ってこう言った。
「あら、ありがとうございます。でも大丈夫ですわ。私の兄さんに手伝ってもらいますから」
「……何でさ」
 もう完全に帰る気満々だった僕は、華黒の暴挙にそうとだけ呟いた。
 というわけで華黒の仕事は手伝わされ、ついでに男子からは嫉妬の視線のレーザービームで焼き裂かれ、踏んだり蹴ったり泣きっ面に蜂。散々なものである。
「そうでなくとも華黒だったら山本リンダばりにこまっちゃうナって言えば男子に仕事押しつけられただろうに」
「嫌ですよ。兄さん以外の男子に借りを作りたくなんてありませんもの」
 さいですか。
「それに下心のある男ってうんざりするんです。もう少し兄さんみたいに高潔な男はいないものでしょうか」
 アプローチしてくる男はうんざりで、アプローチしてこない男は赤の他人と決め込んでおきながら彼女は何を言っているのだろう。
「そもそも妹に下心を持つ兄なんていないよ」
「そういう意味では兄さんの妹という立場は歯がゆいですね」
「難しい問題だね」
 心にもないことを僕は言った。
 ああ……世界はこんなにも茶番だ。
 

 
「「失礼しました」」
 兄妹揃ってお辞儀。慇懃に頭を下げて職員室を出る。
「んー……」
 僕はこった肩をほぐそうと伸びをした。だいたい力仕事なんか僕にはむいていないのだ。
「まったく華黒のおかげで余計なことしたもんだよ」
「先生にも委員長にも感謝されて一石二鳥じゃないですか」
「君がそれを言うのかな」
 まったく説得力を感じない。
 そもそも書類一つ運んだだけで感謝も何もないだろう。きっと先生だって今日が終わる頃には僕らの功績など地平線のかなたへと忘却しくさっているはず。人の善意の価値なんてそんなもんだ。
「……なんて考えは歪みすぎか。華黒じゃあるまいし」
「はい? なんでしょう?」
「なんでもないよ。それよりどうする? このまま帰る?」
「そうですね。このまま学校に残っても部活の勧誘を受けるだけですし……」
 華黒は、ね。
「早く帰りましょう。兄さんと二人きりになりたいです」
 とたんに帰りたくなくなる僕。
「とたんに帰りたくなくなる僕」
 口は正直だった。
 などという茶番はさておき、
「さて、今日の晩御飯は何にしましょうか。兄さん、リクエストはありますか?」
「うーん、そうだね……」
 ひとしきり悩んでから、僕はこう言った。
「華黒が食べたい」
「はぇ?」
 文字通り目を丸くして華黒が驚いた。
「はぇ?」
 僕も驚いた。
「…………」
「…………」
 一時の沈黙。言葉の意味を理解するまでに僕らは数秒の時間を要した。
 そして、
「は、はわ……!」
 ボフンと湯気を立ち昇らせながら華黒が紅潮する。
「に、ににに、兄さん……! そ、それは……! わわわ私と添い遂げる決心ををを……!」
「違う違う違ーう!? 僕は何も喋っていないよ!?」
 などと、ひとしきり兄妹で慌てていると、
「ふ、くく……あははははっはは……!」
 すぐ近くから笑い声が聞こえてきた。どうやら僕らの醜態を笑っているらしい。
 ていうかこの聞き覚えのある声は……。
「ふふ、ははは……いや失敬失敬。実に面白いね君たち兄妹は。まったく羨ましいかぎりだよ」
 そこにはおかしそうに笑う彼女がいた。
「……昴先輩」
「……昴……!」
 僕と華黒が同時に名を呼ぶ。
 僕は疲労を、華黒は敵意を乗せた声で。
 クセのあるショートをツンツンに尖らせて、自信に満ち溢れた双眸を輝かせ、不敵な笑みを口元に浮かべ、尊大に腕を組んでいる彼女。彼女こそこの瀬野第二高等学校のカリスマ敏腕生徒会長、酒奉寺昴その人である。
「やあやあ百墨兄妹、これはこれはご機嫌麗しゅう。特に華黒君、我が背の君よ。私と出会えない間は枕を涙で濡らしたかな」
「「…………」」
 僕と華黒は揃って言葉を失くす。どうしたって彼女の言動には引いてしまう。
「もちろん私は君と出会えない夜は星を見上げて恋歌を詠んでいたよ。君の残光を星座に映してね」
 のっけからとばすなぁ昴先輩。
 開いた口がふさがらないとはこのことだ。
 隣の華黒は頭痛がするのか、こめかみを指で押さえたうえに苦虫を噛み潰したような顔をしていた。昴先輩は僕以外の全てにおいて不遜であるはずの華黒の数少ない天敵なのである。
「とりあえず一つ訂正させてもらいますが背の君とは夫を指す言葉です。女の私に向けて使う言葉ではありません」
 ほら、華黒のつっこみのポイントがずれてる。昴先輩の空気にのまれた証拠だ。
「なに、広義的に解釈すれば女性が愛しく想う人のことを指す言葉であるのさ。ならば私が華黒君に向けて使うことに何の問題もない」
「…………」
 うーん、昴先輩絶好調。
 黙ってしまった華黒に代わり、僕はおずおずと挙手した。
「あのー、一つ質問してもいいですか?」
「うむ。許可する」
 何様だ。
「さきほど僕の声色を使ったのは先輩ですか?」
「『華黒が食べたい』……のことかな?」
 う、わーお。どこかの怪盗顔負けな声真似。
「そんなこともできたんですね、先輩」
「最近習得したのだよ。あったら面白いと思ってね」
 完全にからかう気まんまんですね。
 ちなみにこの人、百以上の技能を持つ多才である。特に得意なのはブラのホックを外すこと。たとえコートの上からだろうと女性のブラのホックを外せるほどの腕の持ち主だ。たまに本人が意図していないのにいつのまにか外していることもあるそうで、ここまでくるとただの病気といえる。
「とまれ、そんなことはどうでもいいのだよ真白君。それよりももっと建設的な話をしようじゃないか」
「……まぁ毎度毎度確認するのもなんですが建設的な話と言いますと?」
「それはもちろん、私と華黒君の未来について……」
 と、突然。
「昴様っ!」
 僕らと昴先輩の会話を断つ大声が響いた。僕と昴先輩が同時に声のした方へ向く。ちなみに華黒は眉間を押さえてうな垂れていた。
「昴様、こんなところにいらしたんですね!」
「おや、穂波君じゃないか」
 惚けたように昴先輩がその声の主の名前を呼ぶ。穂波、と呼ばれた女子は当たり前だがこの学校の生徒だった。センター分けのボブカットをした平均身長の女の子。よほど焦ってここまで来たのだろう。息が荒れている。
「どういうことですかっ!」
「何のことだい?」
「今日は私と明日美とデートする日だって仰ったじゃないですか。なんで急に取り止めたんですか!?」
 どうでもいいけど職員室の前で声を張り上げないでほしい。
「急じゃないよ。昨日のハーレムで既に伝えたはずさ。ああ、そういえば昨日穂波君はハーレムに来なかったね」
「それは……だって……昴様とデートだから服を買いにいっていて……」
「ふふ、いじらしいね。私のために綺麗になりたかったのかい? でも君はもう十分に美しいよ」
 先輩が穂波さんのおとがいを優しく人差し指で持ち上げた。
「昴様……」
 うっとりとして昴先輩の瞳に魅入られる穂波さん。
 うーん、バックに薔薇が見える。
 僕の錯覚だろうか。
「せっかく……せっかく昴様とデートができるはずだったのに、こんなことってないです」
「ああ、悲しまないでおくれ私のキティ。君への愛は確かなものなのに応える事ができないなんて……私だってもどかしいのだよ。私に体が三つあれば一つは君に接吻し、一つは君を抱擁するだろう。けれども私に体は一つしかない。とりとめのない万象のしがらみで拘束されることは私にだってどうすることもできないのさ。どうか聞き分けておくれ」
「はい、昴様。でも次の時こそは……」
「ああ、約束するよ。君を悲しませはしないと。さ、もうお行き。私といても空しくなるだけだよ」
「必ずです。必ず可愛がってくださいね?」
「ああ、必ずだとも」
 約束するよ、と呟いて昴先輩は穂波さんを見送った。名残惜しそうに先輩を見つめながら離れていく穂波さんに投げキッスのサービスまでした後で、彼女はようやくこちらに視線を戻す。
「ていうか何の寸劇ですか。昴先輩、自重してくださいよ」
「可愛い娘が時を選ばず私を求めるのなら、私も場所を選ばず応えるだけさ。真白君に何を言われる筋合いもないよ」
「そりゃそうですけど……」
 困っちゃって頬を掻く僕。華黒が溜息を一つついて僕の手を握ってきた。
「こんなアホウに何を言っても無駄ですよ兄さん」
 グイと僕の手を引っ張る。
「早く帰りましょう? 私、先ほどから気分が優れません」
「それはいけないね華黒君。よし、私が保健室まで送ってあげよう」
「必要ありません。食べられるとわかって虎穴に向かう馬鹿はいませんから」
「そんなつもりはないよ。これは私の真摯な愛さ。何かしらの見返りや損得を期待しているわけじゃない」
「可愛い女の子と見るや手当たり次第に手篭めにしてしまう安売りの愛に興味はありません。あなたが保健室……いえ、病院にいって性同一性障害を治してもらってきなさい」
「私は男を気取っているつもりはないのだけれど。ただ美しい女の子が好きなだけさ」
「そうですか。生憎ですが私は同性愛差別主義者ですので」
「それはいけないね。全ての愛に貴賎がないことを理解しなければ」
「誰も彼もを恋人にしている人間に愛がどうのと言われたくはありません」
 ちなみに昴先輩の恋人は複数人いる。その全員が同性だ。先輩を中心としたハブ型恋愛相関コミュニティをハーレムと呼称し、彼女らは先輩のことを「昴様」と呼ぶのだ。この学校の常識である。
 ……よく考えると常識か、これ?
「恋人の数と愛の深さに因果関係があるわけでなし。私の愛がハーレムの彼女らに対して不誠実だと思われることは心外だね。私の彼女たちへの愛は全て本物さ」
 昴先輩は自信満々に言い切った。
「愛とは世に最もたるエンターテイメントだよ。人はそれが無くても死にはしないけれど人はそれ失くしては生きられない。無償の喜び。至上の潤い。愛以上の満足など存在しないことの証明のために人間たちは愛し合う。例え私に恋人が何人いようとも華黒君への愛は真摯で純粋なものだと確信しているのだがね?」
 すらすらとまぁよく言えたものである。
 半ば感心しているそんな僕と、それからあからさまな敵意をもって昴先輩を睨めつける華黒。
「残念ですが私とあなたでは意見に相違があるみたいですね」
 そう僕の妹は言った。
「愛は世に公認された差別です。想い人を絶対へと、以外の者を等しく無価値へと変える極めて能率のいい差別」
 昴先輩を擁護するわけではないけれど、君の意見も極端だね華黒。
 ……まぁ、らしいといえばらしいけど。
「愛が差別とはね。それは悲しいことではないかな」
「いいえ。むしろ複数のものに価値を置くから世俗にまみれて苦しむんですよ。たった一人を愛することで自身の欲求が完結するのなら、これは悟りにも似た高尚な思考だとは思いませんか? “あなたがいれば他に何もいらない”なんて言葉、とても正気とは思えませんけど……でも、全くその通りなんです。幸せに生きる方法というのは欲を抑えつけることでも欲に溺れることでもなく欲の矛先を絞ること、これに尽きます。その最たる例として愛が存在し、愛が差別だというのは“そういうこと”なんですよ」
 華黒は握りあった僕の手を自分の方へと引っぱると、一度離して今度は両腕をからめるように抱きついてきた。
「わ、華黒?」
 腕に抱きつかれた僕の疑問はさらりと無視して、さらに言葉を紡ぐ。
「別にあなただけではありませんよ。私は一人を除いた全ての他人を差別していますから。別にあなただけではありませんよ。私は一人を除いた全ての他人に価値をおいていませんから。別にあなただけではありませんよ。私は一人を除いた全ての他人を愛することがありませんから。その一人以外の誰にも心を許さないことがその一人に対する愛の証明と私は本気で思っていますよ?」
 僕に抱きつく華黒の両腕にぎゅっと力が込められる。
「…………」
 めんどくさいので僕はノーコメント。
「やれやれ」
 昴先輩は、肩をすくめて息を吐いた。
「華黒君の思考は神を盲信するエデンの住人のようだ。さしずめ私は知恵の実を喰らわせようと謀る蛇なのかな?」
 ああ、それはいい例えだ。
「知恵の実を食べないとエデンの外に出られないというところも華黒らしいといえばらしいですね。ナイスな比喩です昴先輩」
「兄さん!」
「あ、はい……なんでもありません。あはは……」
 腕をしめつけられて日和る僕。我ながら情けない。
「それで? 言いたいことはそれだけですか? 私と兄さんはこれから愛の巣に帰らないといけませんからあなたなどに構っている暇はありませんよ」
 愛の巣て。
「ああ、そうだねえ。それならば愛の語らいは華黒君の部屋ですることにしよう。なにぶんここでは人目につきすぎるし……ね」
 人目につかないところで何をする気ですかレズ会長。
「ていうか、ついてくる気ですか」
「冗談だよ。華黒君と別れるのは名残惜しいけれども口説くのはまた今度にしておこう。義務を捨て置いて華黒君を優先したらデートを断った穂波君に申し訳ない」
 生徒会長の義務には申し訳なくなどないみたいな言い方である。多分本気でその通りなのだろうけど。
「それでは、ね、百墨兄妹。運命があるのなら、また今度」
 ひらひらと手を振って昴先輩は職員室へと消えていった。
 ピシャリとスライド式のドアが閉められる。
「…………」
「…………」
 一時の沈黙。
「……嵐が去った」
 僕は知らず額の汗を拭っていた。
「多分次に会ったときは運命が私たちを云々とか言ってくるだろうね……」
「まったく、毎度の事ながら不愉快な女です」
「こらこら、仮にも先輩にそんなこと言わないの」
「年経ただけの人間など敬意の対象にはなりません」
「あれで昴先輩は才人だから敬えるはずなんだけど……」
「その分人格が破綻しています。同性愛なんて、まったく非生産的な……」
「そうかな? それだけ華黒が魅力的だってことじゃない? 昴先輩は面食いだし、つまりあの人のお眼鏡にかなうってことはそれだけのことだと思うよ」
「兄さんにそう言ってもらえることは至上の喜びなのですけどね。兄さん以外の人間に愛されたところで煩わしいだけです」
「まぁ、華黒はそうだろうねえ」
 視界が欠落しているのだから。
「よくも統夜さんもあんなのと姉弟でいられるものだと感心しますよ」
「…………」
 まぁたしかに。
 他人の身内を貶めるのは失礼ながら、昴先輩を姉に持つのは僕も勘弁したい。
 統夜、苦労してるんだろうなぁ……。
 哀愁。
「ま、いいか」
 僕は感傷を三秒で打ち切った。
 話題を変える。
「それで華黒、話を戻して晩御飯の件だけど……」
「私を食べてくれるのではないのですか?」
「…………」
「…………」
「……昴先輩に食べられてしまえ」
 とりあえずそうとだけ言っておいた。
 放課後のチャイムが鳴る。

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