超妹理論

『ある日』


「であるからして、このときa=-2、b=1、c=0となり描かれる二次関数のグラフは……」
「……わかんないよ」
 教師に聞こえない程度の小声でそうぼやく。
 僕は手に持ったシャーペンをプロペラのように回転させながら、黒板に書かれていく暗号文の解読を放棄した。
 パイプと木でできた簡素な背もたれへと体重いっぱいにもたれ掛かって小さく伸び。
 後で華黒に解説してもらおう、などと他力本願なかたちで目の前の勉学に決着をつける。
 なにせ完全無欠な妹と違って僕は凡夫そのままの人間だ。
 模試の偏差値は五十きっかり。
 ここ、瀬野第二高等学校では低い方だと自負できるほどに人並みの学力だったりする。
 ので、最初からこの学校のカリキュラムについていくなんて無理な相談なわけだ。
 そんな諦観は、先日の小さい台風のような女の子に振り回された疲れも手伝って、見つめる先の黒板に書かれた放物線のようにテンションを下へ下へと滑りおとす。
 一つ欠伸などしてみたり。
「お疲れのようだな」
「まぁね」
 大きく息をはいて眠気を追い出していると隣の席に座っている友人、統夜が人の悪い笑顔で話しかけてきた。しかも並行してノートも欠かさずとっているのだから器用と言うほかない。
「寝てないのか?」
「ちゃんと寝たよ。疲れが取れなかっただけで……」
 うんざりと昨夜の華黒を思い出す。
「ああ、そうだろうな。華黒ちゃんと添い寝なんかしてりゃあ」
「っ!」
 何故、という混乱した思考よりも手のほうが早く出た。
 押さえつけるようにして片手で統夜の口を封じると、慌てて周りを見渡す。
 誰かに聞かれなかっただろうか……。
「聞こえてねぇよ。心配性だな」
「勘弁してよ統夜。ただでさえ華黒の腰ぎんちゃくなんて悪評が出回ってるのに、これ以上のことが男子に聞かれたら……」
 想像して身震いする。
「ていうか何で統夜がその事実を知ってるのさ? まさかとは思うけど盗撮?」
「趣味じゃないから安心しろ。状況から推理した単なる憶測だよ。ただまぁ自分以外の目を持ってるのは事実だけどな」
「うむ?」
 わからないことを言う。
「例えば、だ。日曜日は小さな女の子に振り回されて御楽しみでしたね、とか」
「……だからなんで知ってるの」
「あの日は姉貴のデートのスケジュール管理で俺も駅の近くにいたのよ。そしたらお前が楽しそうなことに巻き込まれてるっぽかったから知り合いに頼んで一部始終を」
 ……ああ、自分以外の目ってそういうことね。
「でもそれってプライベートの侵害だよね?」
「あるかそんなもん。俺のプライベートだって姉貴に潰されたんだ。他人の不幸でも糧にしないとやってられなかったんだよ」
 どういう理屈。
「ちなみに先の情報は華黒ちゃんのファンがよく食いついてくれるエサだと思うんだがどうよ?」
「勘弁してください」
「問題は親兄派と反兄派のどっちに流すかなんだが……」
「人の話を聞いて!? そしてその親日、反日みたいな派閥は何!?」
「華黒ちゃんのファンクラブの間でな、兄である真白を味方につけるか反目するかで今論争が起きてるんだ」
「…………」
「なんだかんだいってお前さ、自分じゃ自覚してないかもしれんけど十分シスコンなんだよ。お前が一番華黒ちゃんの近くにいるんだよ。するとお前に取り入って華黒ちゃんに近づこうと思う奴やお前が華黒ちゃん攻略の最大の砦だと思う奴も出てくるわけ」
「……そんなことになってたの?」
「今のところ後者の方が多いんだがな」
「敵多数!?」
「だって真白、お前は華黒ちゃんが告白されるたびにそれを妨害してるんだろ? そりゃ邪魔だと思う奴のほうが多いわな」
「いやいや、それ誤解だから」
「知ってるよ。本当は華黒ちゃんの意思なんだろ? でもそんなことを察せるのは事情を知ってる俺くらいなもんで他の奴にはそうは見えんってことだ」
「……まぁね」
 認めたくないけど。
 たしかに他人の目には華黒が僕にまとわりつく理由なんて見つけきれるものじゃない。
「ま、当の華黒ちゃん自身はその辺のことどう思っているのやら……」
「(……一種の顕示欲)」
「ん? なんか言ったか?」
「特に何も」
 そうそっけなく返して、少し離れた席にいる当の華黒を覗き見る。
 我が妹殿は優等生らしく真面目に勉強しているのだろうかと当たりをつけた……のだけど、
「なんだか難しい顔してるな」
「統夜もそう思う?」
 勉強なぞどこ吹く風で、必死に一枚の紙を凝視していた。
 だいたいノートくらいの……正確に言うなら美濃判を二つ折りにした程度の大きさの紙を、彼女はなんともいえない表情で見つめていた。授業も聞かずに。
「ラブレターだな」
 統夜が断定する。
「なんでわかるのさ?」
「俺の第三の目がそう言ってる」
「見えてる、の間違いじゃない?」
「いや、“言う”であってる。とにかくあれはラブレターだな。俺の情報収集能力を信じろ」
「まぁ何でもいいんだけどさ……」
「とか言いつつ妹のことが気がかりで目を離せない真白であった」
「うるさい」
 軽く統夜の頭をこづいて、そのまま憂いげな華黒の横顔を見続ける。
 で、そのまま授業が終わったりしちゃってね。
 

 
 午前最後の授業だった数学もめでたく終わり、昼にととられた一時間弱の休み時間。
 クラスメイトからの昼食の誘いをことごとく断った華黒と誰にも誘われなかった僕は共に学生食堂、略して学食にいた。
 聞こえてくるのは喧騒と雑音。
 時間が時間のため堂内はほぼ満席。同じ制服の人間という人間がいったいどこから湧いてくるのか疑問なほどに詰め込まれたその場所の、奇跡的にすいていた席の一角に向かい合う形で僕らは座っている。
 そんな中、
「その……ラブレターというものをもらってしまいました」
 日替わり定食を前に合掌しながら、華黒は何気なくその一言を言い放った。
 さらに付け足すように小声で「いただきます」が聞こえてくる。
「合掌、いただきます」
 僕もつられて昼食の犠牲に感謝の意を表明する。
 華黒の表情がしぶくなった。
「……無視ですか?」
「何が?」
「私の先ほどの発言ですよ」
「ああ、いただきますのこと? あれって実は仏教用語なんだってね。つまりこうやって食物になってしまった幾多の命たちに感謝するための一つ宗教活動と言えないこともないよね」
「その前の発言です」
「…………」
 うーん、誤魔化せないか。
「どう思います?」
「どう思うって言われてもね……」
 あいかわらず統夜の自称情報収集能力とやらのすごさに感服した……とか。
「自慢ではありませんけど私、男子に人気なのですよ?」
「その発言、自慢じゃないなら嫌味だね」
「論点はそこではありません」
 異性にとんと縁の無い僕としては十分論ずるに値するのだけどな。
「それで? 僕にどうしろと?」
「嫉妬してください」
「……はい?」
 思わず聞き返す。
「聞いて驚き取り乱し問いただし否定し確認し再度否定し抱き寄せ略奪し主張し見せつけ……」
「待った。それは何。僕が? 華黒に?」
「冗談ですよ」
 華黒は真顔で言い切った。
「言ってみただけです。本当にしてくれたら御の字ですけれど……兄さんを困らせたいわけじゃないですから」
 どの口がいけしゃあしゃあと。
「たまに不安になるんです。どうやったら兄さんを振り向かせることができるのか、と」
「その考察の結論として僕を華黒の恋路に関わらせるのはどうかと思うけどね」
「だって大勢の男が妹を狙っているのですよ? 世界中の兄の危機ですよ」
「理論が破綻してるよ華黒」
「だって……」
「あのね華黒、当然承知しているだろうけど世界に僕だけが男じゃないからね?」
「生物学的にはそうですね」
「染色体の話をしているわけじゃないのだけど」
「兄さんを狙うなら男だって私の敵ですよ?」
「……嫌な想像させないでよ」
 ただでさえトラウマなのに。
「華黒はなぁ、僕しか見えてないっていうのは大局的に見て損してると言わざるをえないね」
「視界が壊れているのはお互い様です。兄さんの欠陥だって十分悲惨ですよ」
 まぁね。
 兄妹そろって“普通”に擬態しなきゃならないのは確かにアレだけど。
「僕もたまに考えるんだ。どうやったら華黒が正常に戻るのかって」
「ありえない未来ですね。欠損したものは代替することでしか直すことはできません」
「それでも華黒の思考は幻想だよ。世界は華黒の敵じゃないんだから」
「敵ですよ。一瞬の油断も一寸の譲歩も許されない敵です」
「…………」
「だから兄さん。兄さんだけが私を愛してくれるなら私は他に何もいらないのです」
「結局その結論に辿り着く、か」
 僕は箸を咥えたまま肘をついた。どうしたって溜息が出る。
「それで、ラブレターの君はどうするのさ」
「どうもこうも……」
 残念無念、と。
「これで撃墜数がまた更新されるわけだ。入学してそんなに経ってないのに既に十三人が撃沈っていうのもちょっと見ないよね」
「誰彼節操なく付き合う人間に比べればマシです」
「あの人はいろんな意味で規格外だからなぁ……」
 どこからあの自信が溢れてくるのか不思議なくらいだ。
「まぁ、そんなことはいいではないですか。それよりもそろそろ食事に手をつけましょう? 昼休みが終わってしまいます」
「それもそうだ」
 少し話し込みすぎた。僕は自分の皿からしょうが焼きをつまむと口に運ぶ。やけに塩のきいた豚肉が刺激的。
「兄さん兄さん」
「なんでがしょ?」
「はい、あーん」
「…………」
 華黒は日替わり定食の焼き鯖をほぐすと、何を考えたか僕の口元まで持ってくる。
「ナンノジョウダンデスカ?」
「いいえぇ、冗談なんかではありません。はい、あーん」
 ぐいと更に箸を押し付けられる。
「ちょっと華黒、他の生徒達が見てるよ」
 しかも彼らの視線には殺気を感じるようなそうでないような。
「兄妹仲睦まじくていいではないですか」
「…………」
「それとも兄さん。酷い、私とは遊びだったのね、などとここで泣いてもいいのですか?」
「脅迫!?」
 タチの悪い……。
「どうせいつものように兄さんが譲るのですから早々に諦めてください。はい、あーん」
「あ……あーん」
 弱いな、僕は。
 刃物のような視線につつまれた中で、嬉しそうな華黒だけが妙に浮いて見えた。

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