超妹理論

『白の歪み』


「っ! 危ないナギちゃんっ!!」
 僕の悲鳴の先。
 道路に飛び出したナギちゃんと、聞こえる車のクラクション。
 無邪気で無防備で無警戒な女の子の暴挙に、僕と華黒はある種の驚きとともに瞳孔を見開いた。
 なんて無知な!
 道路に急に飛び出すなと親に習わなかったの!?
 そんなとても重要で、同時に今は重要でない言葉が浮かぶ。
 けれどそれも一瞬。
 思わず脳裏に閃いたグロテスクな想像を封印して僕はすぐさま神経を研ぎ澄ます。何かを考えている余裕はない。焦燥の思考はそのまま行動へ。直接助ける以外の選択肢が思いつかないままナギちゃんの背中めがけて加速し、
「っ!?」
 ようとして何者かに阻まれた。
 急加速から急減速。連続的な速度変化に僕の体が大きく揺れる。
 いったい何が、という疑問。
 その答えはすぐに出た。
 腕を掴まれている感触。捕まえられている感覚。
 僕は細い小路を駆けて、華黒の隣を通りぬけざまに飛び出そうとして、
「華黒!?」
 当の華黒に邪魔されてしまっていたのだった。
 走るに際して振っていた僕の腕、その右手首を何故か華黒が掴んでいる。いったい何の嫌がらせか。容易には離してやらないといわんばかりの握力を僕の右手が感じとっていた。
 何をするのさ、と目だけで問いかける。
 はっきりいってふざけている場合ではない。人一人の命がかかったこの状況では一秒が惜しい。
 ほとんど睨みつけるにも等しい僕の瞳。
 けれど華黒も同じだけの意思を持って見返してきた。
 その瞳が語る。
 絶対に行かせません、と。
 僕のやることが人助けと知っていて尚これを許さない決然たる意思が彼女の瞳に映りこんでいた。
 正気の沙汰じゃない。非人道ここに極まれり。
 でも、それは。
 つまるところ。
 例えナギちゃんを切り捨ててでも僕をトるということに他ならない。
 非人道的に見えるけど、極めて人道的な選択。まったくもって合理的。
「……けど、その判断は却下だね、華黒」
 即断。
 残念だけど迷えない。
 僕は思いきりの力を込めて妹の邪魔を振りほどいた。
 ふつ、という幻聴とともに互いの手が僕によって切り離される。
「兄さんっ!?」
 聞こえる華黒の悲鳴も聞こえないふり。
 躊躇いもなく妹に背を向けると、助けるべきに向かって再度僕は駆け出した。
 華黒のせいで生じた幾ばくかの遅れは頭のネジを外すことで補完する。
 視覚が、赤いフィルターを被せたかのように真っ赤になる。
 聴覚が、雑音を静寂へ書き換えたかのように静かになる。
 感覚が、世界から切り離されたかのような浮遊感に満ちる。
 発症だ。
 小路と歩道との境目にあるポリバケツを蹴飛ばし、歩道も一歩で踏み越えて、僕もナギちゃん同様アスファルトへと飛び出した。
 ナギちゃんはもうすぐそばに。
 そして……すぐ隣をチラリと見るとブレーキ音を高らかと響かせながらスリップしている大型トラック。
 とてつもなく……質量大。
「……うわぁ」
 僕は自分の行ないを激しく後悔した。
 

 
 華黒曰く、僕は“病気”らしい。
 いや……僕自身その自覚がないわけではない。
 いくらナギちゃんを助けるためとはいえ大型トラックの前に飛び出すなんて正常な考えとは言いにくい。
 当然、これが特異だということは事実として認識している……のだけど……やってしまうんだからしょうがないと思うんだ、僕は。
「あ、あはは」
 乾いた笑いが口からもれる。
 もう目と鼻の先に迫ったトラック。
 どうにか止まらないかな、などとどこか現実逃避気味なことを思い浮かべる僕なのだけどトラックの持つ大質量がたかだか急ブレーキ程度の気休めでピタリと止まるはずもなく、結局僕とナギちゃんがいた空間のガードレールを飴細工のようにグニャリと歪めてしまっていた。
 ……そう。
 あくまでガードレールを、だ。
 肝心の僕は、ナギちゃんを抱きとめると一瞬早くガードレールを飛び越えて歩道へ。
 目と鼻の先まで迫ったトラックなのだけど僕らに到達することなく、ただ国費の負担によって設置されたガードレールだけを事故の対象として巻き込んでいた。
 ……最初に「道路にガードレールを設置しよう」と言いだしたのはいったい誰なのだろうか。
 ともあれ……、
 国家、万歳。
 国土交通省、万歳。
 税金、万歳。
 おかげで僕ら、生き延びました。
 もし、あと半秒でも僕らがその場に留まっていたなら、あのガードレールと同じ形になっていたのだろうことは想像に難くなかったりして。
「いやはや、本当に勘弁してよ……」
 僕は腕の中で抱きしめた少女に軽く頭突きをしてやった。
 コツンと軽い音が鳴ったのは、はたしてどちらの脳内が空っぽだったからなのか。
「シロ……ちゃん……?」
 華黒の真っ赤なショ……下着を握り締めたまま呆然とした様子でナギちゃんが呟く。
 明確な言葉が出ないらしい。
 ……当然だ。
 ここまで濃密に死を想起させられたのは僕だって久しぶりなのだから。
 今度は一度目より強く頭突きをしてやった。
「痛っ!? 何するのよシロちゃん!?」
「……僕も痛い」
「じゃあしなきゃいいでしょ!?」
「……馬鹿言わないでよ。もう少しで痛みすら感じられなくなるところだったんだから」
「……う゛」
 ひりひりと熱くなったおでこが妙に気持ちいい。
 今痛みを感じているってことは頭のネジも元に戻ったみたいだ。
「あ、あのねシロちゃん。これは……」
「言い訳は無し」
 どもるナギちゃんをピシャリと遮る。
「…………」
「ごめんなさいは?」
「ふぇ?」
「だから、ごめんなさいは?」
「むぅ」
「むぅ、じゃないよ」
「……じゃあ、ごめんなさい」
 多少渋ったもののナギちゃんは存外素直に頭を垂れた。
「道路に出る前には一度止まること」
「むぅ」
「右と左を確認して、もう一回右を確認してから道路に出ること」
「むぅ」
 ……本当にわかってるのかな、この子は。
「わかってるわよ」
「僕の心を読まないで」
「でも今回は助かったわ」
「次にまたこんなことがあったらどうするの……」
「そのときは……またシロちゃんが助けてくれるんだよね?」
「…………」
 まったく、こんなときばかり子供っぽい口調に戻りなさって……。
「だいたい君が――」
「――兄さんっ!!」
 おげぇ。
 いきなりだった。
 話途中に後方から首を絞められ、気道の流れが逆流してしまう。
 いや、多分これは首を絞められたのではなく首に腕をまわして抱きつかれたのだろう。
 なにせ相手は……。
「華黒……」
 妹なのだから。
「馬鹿っ! 兄さんの馬鹿!」
「そうなんです。君の兄さんは馬鹿だったのです」
 学力の校内順位も下から数えたほうが早いしね。
「そういう意味じゃありません! 馬鹿! ロリコン! わからず屋! セーラーマニア! ビーフシチュー!」
「華黒、罵倒のレパートリーが滅茶苦茶になってるよ」
 今日の夕食はビーフシチューなのかな?
「何で何で何で飛び出したりしたんですか!」
「いや、だって急いでたし……」
「道路に出るときは一回止まって右見て左見てもう一回右を見てからだといつも言ってるじゃないですか!?」
「言ってないし、それ僕に言うことじゃないし、そんなことしてたら間に合わなかったよ」
 とか言いつつ僕もそっくり同じ内容をナギちゃんに注意したような。
「たかだか他人の生死のために兄さんが命をかける理由はないじゃないですか!」
「あー、いや、体が勝手に……」
「だから馬鹿だって言ってるんですっ!!」
「…………」
 うーん。
 会話がグルグルとリングワンデルング。
「兄さんに死なれたら私、私……」
「四十九日までお酒が飲めないじゃないですか、と?」
 ちなみにこれを精進落としという。
「冗談でもやめてくださいよ! 私は、私は後追い自殺などしたくないのですから!」
「冗談でもやめてよ!? ウェルテル効果じゃあるまいし!?」
「いいえ、絶対に死んでみせます! 兄さんが死ぬのなら私も死ぬ。もしそれを望まれないというのなら何を捨てても生き延びてくださいな!」
 金切るような声でそう言い切ると、僕の首にまわした彼女の両腕がさらにギュッと絞められる。
 ぐえ。
「やめてくださいよ……本当に……」
 ……むぅ。
 …………あー。
「……ごめん。僕が悪かった」
 そうだ。
 僕がナギちゃんを案じた気持ちと同じ……あるいはそれ以上に華黒は僕を案じたのだろう。
 ナギちゃんが僕に謝ったように、僕もまず真っ先に華黒に謝るべきだった。
「その……今回は無事だったから許してくれないかな、とか?」
「…………」
「駄目、かな?」
「……今回だけですよ?」
「うん。約束する」
「本当に?」
「もちろん」
「本当の本当の本当に?」
 …………。
「た、多分……」
「何故そこでどもるのです!?」
「あぁいやだって……!」
 華黒が何度も聞き返すから、などと言い訳しようとして、
「だって今度も私を助けてくれるからに決まってるわ。ねぇシロちゃん?」
 それより早く僕じゃない声が解答欄を埋めてしまった。
 僕の代わりに答えたのは、腕の中で無邪気に笑いながらのナギちゃん。
 ていうかちょっと!?
 最悪のタイミングで口を挟まないで!?
「何ですかあなたは! 私と兄さんの間に割り込んでこないでください! 兄さんがあなたなんかのために二度もこんなことするはずないじゃないですか! だいたいいつまで兄さんに抱きついているんです!?」
「私が抱きついてるんじゃないわ! シロちゃんが私を抱きしめてるの!」
「それはあなたを助けるために仕方なくです! 何を鬼の首でもとったかのように!」
「助けてもらったのは事実でしょ! きっと今度も私を助けてくれるのよね?」
「んー、どうだろう」
 そもそもこんな事態が二度も続いてほしくないのが本音なんだけどな。
「ほら、シロちゃんだって快く同意してくれてる!」
 え、どこをどう聞いたらさっきの返事が同意になるの?
「違います! 兄さんははっきりと拒否したのです!」
 いや、そういうつもりでもないんだけどね。
「そうよねシロちゃん!?」
「そうでしょう兄さん!?」
 …………。
「……えーと」
 前からナギちゃんに、後ろから華黒に、それぞれ抱きつかれて逃げ場がないんだけどな。
「……だから、その……」
 ここは話題を逸らすべきだと判断。
「僕としてはなんだか注目されてきたから離れてほしいな、なんて」
「「……あ」」
 今気付いたのね二人とも。
 なんといってもトラックのクラクションと直後の事故。
 そして僕に抱きつく女の子二人。
 駅の近くでこんなことをしていれば注目されないわけもなく。
 なんやかやとグダグダやってるうちに僕らの周りには小さな人だかりまで出来つつあった。
 慌てて僕から離れる二人。
「えーと、それでさ……これからどうしようか?」
「どうしようって何がよ、シロちゃん」
「だからさ。事故が起きちゃったんだから警察に連絡とか」
「そんなことは野次馬がしてくれてると思うわ。それより肝心の運転手さんは?」
「車内でうつむきながら念仏を唱えていますよ。どうにも兄さん達を轢いてしまったと勘違いなさっているようで、現実を確認する勇気がないのでしょう」
「かわいそうに……」
 いや、僕が言えた義理じゃないのはわかってるんだけどね。
「構わないわ。事後処理はきっと獅子堂がやってくれるのだから。携帯でここまで呼び出せばそれで終わりよ。それよりシロちゃん」
「ん?」
「ちょっと屈んで?」
 口元に手を添えて内緒話の仕草をするナギちゃん。
 いったい何の話か。
 相対的に高すぎる僕の身長を屈めて、耳を彼女の口元まで近づける。
「(あのね……)」
 ナギちゃんは僕にだけ聞こえるように声をひそめてこう言った。
「(助けてくれてありがとう!)」
 聞き終えたと同時に、頬にやわらかい感触。
 ナギちゃんの可愛らしくすぼめた唇が僕から離れていく。
 …………。
 今、キスされたような……。
 なんてぼんやり考えてると、
「あーっ! 私の兄さんになんてことするんですか!?」
 当然というか……華黒が激昂した。
「えへへ〜。まぁ淑女なりのお礼?」
「何がお礼ですか泥棒猫!」
「いいでしょ。唇奪ったわけじゃないんだから」
「当たり前です! もしそんなことをしたら硫酸で溶かして事実抹消しなければならないじゃないですか!」
 ……それはいったい何を溶かすの?
 まさか僕の唇をじゃあるまいな。
「と言われてもねぇ。私、本当にシロちゃんのこと気に入っちゃったみたい。ねぇ、また会えるかなシロちゃん?」
「ん〜、どうだろう」
「会わなくていいです! 何を迷っているのです兄さんは!」
「いや、だってナギちゃんが……」
「兄さんは私とだけいればいいのです! ほら、接吻なら私がいくらでも……」
 頭に血がのぼって周りが見えていないのか。華黒は世迷言をほざきながら再度抱きつこうとしてくる。
「駄目だって華黒! 人目を気にしてよ!?」
「じゃあ人気のないところにいきましょう?」
「そういう意味じゃないから!?」
 言い終えると同時に華黒のタックルをさばいてみせる。
 が、そんなことで僕の妹が諦めるはずもなく。
 結局、獅子堂さんが駆けつけるまでの間、僕は華黒の求愛攻撃にさらされつづけた。
 なんて日曜日だ、本当に。
 

 
 そもそも僕はラムスデン現象を引き起こす白い液体を買いにいっただけのはずなのだけど、何をどうすればこうまで忙しい一日になるのやら。
 既に帰ったアパートの自室で、僕は寝巻きに着替えながら今日のことを反芻する。
 あの後、警察や獅子堂さんに状況の説明する必要はあったのだけど、状況が状況だけに僕らは無関係という形で終わった。
 ナギちゃんは道路に飛び出しただけ。
 僕も同じく。
 結局はトラックが一人でに事故を起こした、ということに相成る。
 まぁ運転手にとって納得できることではないだろうけど、そこはそれ。僕らは対岸の火事ときめこんだ。
 ナギちゃんは……小路での華黒の言葉がきいたのか、はたまた生死の境に帰巣本能が目覚めたのか、素直に家に帰ると言い出した。
 ただ、
「またね」
 という何気ない別れの挨拶にとてつもなく嫌な予感を覚えたのは、一抹の不安として僕のなかに残った。
 …………。
 まぁ、いいか。
 今日の疲れがたまったせいか家に帰り着いてからの時間の観測は矢の如く、いつのまにか夕食を食べ終わり、いつのまにか風呂に入り終わり、気付けば寝るだけという……。
 既に寝巻きにも着替え終わり、僕は部屋の中心に垂れ下がる紐を何度か引っ張って灯りを消す。機械的で小気味良いスイッチの音の連続とともに辺りの明るさが変化していき、ちょうど三度目で真っ暗になる。
「……ん?」
 そこでようやく気付く。
 暗くなった空間が故に、差し込む光もまた印象的で。
 ダイニングの明かりを背負った華黒が、部屋の扉の前に立ち尽くしていた。
 彼女もまた寝巻き姿で、ついでに枕を抱えている。
「どうかしたの?」
「……その、今夜は一緒に寝てもいいですか?」
 枕で口元を隠しながら華黒はおずおずといった様子でそんな案を持ち掛けてきた。
「いつもは無断で入ってくるのに、今日はどうしたんだい?」
「だって……」
 だって?
 毎度毎度僕の了解も僕への遠慮もなしに忍び込むくせに何を今更……と、そこまで考えてから原因を思いつく。
 ああ、そうか。
 僕が危険な真似をしたせいか……。
「……いいよ」
「本当ですか!? えへへ……」
 何気ない肯定なんかに彼女の表情がほころぶ。
 高校生にもなって兄と寝るもなかろうに。
「腕枕なんてしてくださるともっと嬉しいのですが」
「却下。そもそも自分で枕持ってきといてそれはないんじゃない?」
「むー」
 呻く妹をよそに僕はベッドへと入る。
 華黒もまたダイニングの明かりを消すと、僕のベッドへと入り込んできた。
「その……不束者ですがよろしくおねがいします」
「いや、何もしないから」
「ぜひお願いします」
「だから何もしないって」
 柳に風な僕の受け答えに、華黒の頬がすこし膨れる。
「兄さんの甲斐性なし」
「それで結構」
「据え膳食わぬは男の恥と世間一般では言いますが」
「よそはよそ。うちはうち」
「と言われましても。今夜は思い切って買ったばかりの勝負下着をつけてみたんですよ?」
「そ」
 多分、あの赤い奴だろう。
「あの、ではせめて見るだけでも……」
 そう言いながら華黒はどれほどの躊躇もなくパジャマのボタンを外していき、
「だぁーっ!? やめてっていつも言ってるよね!?」
 僕が無理矢理制止することで初めて妹の奇行はストップした。
 それでも幾分か脱げかけたパジャマの胸元から赤色のアレがチラリと見えて、僕は思わず目を逸らしてしまった。
 視界の端で華黒は悪戯好きの小悪魔みたいに小さく笑う。
「そんな……それじゃあどうやって兄さんを誘惑しろと?」
「しなくていいから!?」
 ええい、気を許すとすぐこれだ。
 結局、僕が落ち着いて睡眠をとれたのは、それから一時間後のことだった。

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