超妹理論

『刑法二百二十四条』後編


「シロちゃん、どこ行くの?」
「僕にもさっぱり!」
 聞くナギちゃんにそうとだけ。
 さすがに子供一人抱えたまま走り続けることもできず、二人の視界から消えた時点で僕はナギちゃんの手を引いて逃げていた。
 既にショッピングモール百貨繚乱も抜け出し、見えるのは駅周りのビル群像。
 車のクラクションと音響装置付信号機の音がやけに響く。
 そんな中を大通り際の歩道を駆け続けて僕と彼女はビル影にひっそりと伸びる一つの小道へと入っていった。曲がり角にちょこねんと置いてあるポリバケツを通り過ぎ、日射から避難して、ようやく僕の足は止まる。
「ここなら大丈夫、だと思うけど……」
 少し荒くなった呼吸を整えつつナギちゃんの手を離してやる。
 想像した以上に暗いその場所は、逃げたい隠れたいといった感情を満たしてくれるような、そんなひっそりとした静寂と停滞に包まれた空間だった。僕たちが曲がってきた歩道がすぐ傍に見えるけれど、日が当たり人に溢れる向こう側とは色相も彩度も明度も音も匂いも何もかもが対照的だ。
 そして落ち着く。
 冷静になれる。
 けれどもそれは、
「うわぁ、やっちゃった」
 我が身を振り返ることにも繋がるのだった。
 よく考えるとすごいことをしてしまった。
「何よシロちゃん。後悔してるわけ?」
 しないでか。
 下手をすれば刑事事件だ。せっかく僕を信頼してアパートに入れてくれた父さん母さんにも申し訳ない……のだけど、もう遅い。
「それはもういいや。そんなことよりさ……」
 さっきまでナギちゃんと繋いでいた手を、彼女の頭にポンと乗せる。
「どうしたのナギちゃん?」
「どうしたのって?」
「だからさ。何があってこうなったのかなって。なんで僕に声をかけたのかなって」
「…………」
「ああ、ちょっと急かしすぎるかな? ゆっくりでいいよ。自分が話せるタイミングでね」
 そう言って微笑んでやる。何より大事なのは彼女を安心させることだ。
 冷えた空気で肺を満たしながら待つことしばし。
「あ、あのね……」
 ナギちゃんが話し出したのは、意外とすぐだった。
 彼女の可愛らしい口元から流れ出る言葉に耳を傾ける。
「私にはお兄様がいるの」
「お兄様?」
「そう、お兄様」
 僕のオウム返しにゆっくりと頷くナギちゃん。
「正確には従兄弟。でも私の家は大きいから私のお母様も伯母様もそこで一緒に暮らしていて、本当だったら私はお兄様とそこで一緒に育つはずだったの。だからお兄様……」
「…………」
 いきなりな身の上話に少し面食らってしまったけど、これはきっとナギちゃんには大切なことなのだろう。
 黙って聞いてやる。
「私が生まれるずっと前の話だってお母様は言ってたわ。お母様の姉、つまり伯母様はさる男性とのお付き合いをお爺様に認められていなかったの」
 んーと……。
 それは「うちの娘をどこの馬の骨ともしれん奴にはやれーん!」ってことなのだろうか?
 テレビの向こう側の世界ではよく見るけど、実際の話と言われると現実味に欠ける。
 いや、この考えはナギちゃんに失礼か。
「でも伯母様はその男性の子供を妊娠していて、そのまま行方知れずに」
「駆け落ち……」
 ふとそんな単語が閃いた。
 ナギちゃんも頷く。
「唐突にいなくなって、それっきりそのまま。今も伯母様がどこにいるのかはわかってないって。お母様はとても伯母様のことを慕っていて、だからこの話をするときのお母様はいつも悲しそう。そしてお爺様はいつも不機嫌になるの」
「…………」
 そんな重い話を幼いナギちゃんに話すほうがどうかしている。
 これは完全に“お母様”と“お爺様”の責任だ。
「……あれ?」
 そこで僕は一つの不可解に気付く。
「お兄様って言ったよね?」
 ナギちゃんの伯母の妊娠に家族が気付いたときには既に伯母は出奔している。
「なんで男だって断定してるの?」
 たしかに妊娠中でも性別を知ることはできるけれども、わざわざ家を出ようという大立ち回りの際にそんな繊細な情報が行き来するだろうか?
 そんな僕の疑問に納得いったのか。彼女は訂正を挟んできた。
「それは、従兄弟の存在を知ったのが最近になってのことだから。伯母様のことは何もわかっていないけれど、伯母様の子供の情報だけを偶然手に入れたらしいの。そして調べてみた過程で性別はわかったってだけ」
「なるほど」
「むしろ問題は、顔も知らないお兄様を調べることができたことにあったの……」
「というと?」
「私の家が懇意にしている興信所がお兄様のことを調べたんだけど、いくら職能集団だからって漫画みたいに簡単に情報を得られるなんてのは嘘なのよ。人一人を調べるにしてもそこには多くの経費と捜査のために歩く足が必要になるわけ。ましてや今まで知りもしなかったお兄様のこれまでの一生を事細かに調べることなんて、いつも身近にいる人でもなければ知る由も知れる由もないのよ」
「えーっと、どういうこと?」
 小学生の話についていけない僕っていったい……。
「探偵にも調べられないことは多いってこと。それなのに、お兄様のことはほぼその人なりを知れるほどに情報が集まった。それも比較的簡単に……」
「良かった、わけじゃないの?」
「問題だって言ったでしょ? お兄様はね、小さい頃に社会的なニュースで取り上げられていたの。普通の人以上に個人の記録が残っていたらしいわ」
 言ってナギちゃんは薄らげに笑った。
「父親からの虐待でね」
「…………」
 う、わーお。
 こんな子に喋らないでよ。お爺様にお母様。
「もちろんニュースに取り上げられてるくらいだから今はもう父親とは暮らしてないそうよ。でも、これはそういうことじゃないでしょ? だから私は言ったの。今からでもお兄様を家に迎え入れるべきだって」
「そんな無茶な……」
 当然お爺様とやらが許すはずもない。何せ交際を認めていない男との子供だ。
「それでお爺様と大喧嘩して家を飛び出した、と」
「……そうよ」
 なるほどなるほど。
 いくつかのことに納得がいった。
 きっとナギちゃんは事実を知る過程で、その会ったことのないお兄様が大好きになってしまったのだろう。
 ……一種の『あしながおじさん』だ。
 けど、それなら、
「僕に声をかけたのは代償行為のつもりかい?」
「っ! そんなんじゃ……」
「ないとは言えないんじゃかな?」
 軽く笑って僕は自分の左手を掲げてみせた。
 そこに見える“モノ”をナギちゃんにしっかりと見せ付ける。
 彼女の目が泳ぐ。
 あからさまな動揺をするナギちゃんは、けれど釘付けになったかのように僕の左手から目を逸らそうとはしなかった。
 まぁ当たり前か。
 ある種のショッキング映像のようなものだ。
 あるいは目を逸らすことが僕にとっての失礼とでも勘違いしたのかもしれない。
「君が気まぐれで話しかけたのだとしたら、なんでそれが僕なのか。その必然性がわからなかった。でも君が偶然を装って僕に近づいたのなら……いや、君自身ももしかしたら自覚なく僕を選んだのかもしれないけど、それは不自然なことなんだ」
 いつもはそんなに意識してるわけじゃない左手を僕もまたまじまじと見つめてみる。コレとは長い付き合いだ。感情のわきようもない。僕の一部であり同時に証でもあるコレを嫌悪することは今更で、かといって幸せな気分になれるものでも全然ない。両親には隠せとよく言われるのだけどそこまで過敏に扱うものでもないのだ。
「僕には友達ができにくい三大コンプレックスがあってね」
 挙げっぱなしの左手で握り拳を作ると、そこから人差し指だけを伸ばす。
「一つが全てにおいて僕に勝る妹がいること」
 勉強も運動も人付き合いも、はては殴り合いの喧嘩ですらも僕は華黒には勝てないだろう。それは比較対象としての僕を貶め、同時に華黒を想う男子の嫉妬を煽る。
「一つが微妙に女顔なこと」
 今度は中指を伸ばす。
 鏡など持たないので自分ではあまり気にしたことはないけれど、統夜曰く「話しかけ辛い」らしい。
「一つが左手の……コレだね」
 薬指を伸ばす。
 左手の……正確には左手首に深く刻まれた傷跡と、その傷に沿う縫い目。
 手術の痕跡だ。
「なもんだからさ。普通は僕に近づこうとする人は少ないんだよね」
 軟弱そうな顔の男が左手にこんなものをぶら下げつつ妹の背中をついてまわれば、誰だって下に見るのが当然と言える。
「だからもしかして、その虐待されたお兄様に僕を重ねたのかなって……」
「……っ」
 図星らしい。
 わからないでもない。
 僕のことをそういう風に見る人はナギちゃんだけじゃないからだ。
「まぁいいんだけどね。気にしてないし」
「シロちゃんはそうかもしれない。けど……お兄様はそう思えているのかしら?」
「…………」
 それは……どうだろう。
「お兄様の資料を見たの。虐待の内容……反吐が出るようなことが書かれていたわ。本当に人間のやることなのか疑わしいような、ね。ある意味で斬新だった」
 口の端を吊り上げて皮肉げに笑うナギちゃん。
 もう少女の浮かべる表情じゃない。
「私はね、それが許せない。お兄様をそんな目にあわせた境遇が許せない。お兄様の父親だけじゃない。お爺様が、伯母様が、他の誰かが、どこかしらで上手くやっていればお兄様は深い傷を負わずに暮らせたかもしれない。もしも私がお兄様なら、その原因の全てに私の気がすむまで決着をつけさせるわ」
 知れずに握ったのだろう小さな手を開く彼女。
「けどそれは私の勝手な妄想。私の傲慢。本当のお兄様は、もしかしたら怒ってるんじゃなくて苦しんでるかもしれない。今も泣いてるのかもしれない。人間なんて信じられなくなってるのかも。……あるいは、そのどれでもないかもしれない。私にはそれがわからないの」
「そしてそれを……僕が知ってるかもしれないって思ったの?」
 肯定。
 ナギちゃんは申し訳なさそうに頷いた。
「だって……シロちゃんの逡巡創は、そういうことでしょ?」
「…………」
 逡巡創って……つくづく変な言葉ばっかり知ってる子だこと。
「生きることが辛いってどういうこと? 他人に傷つけられるってどういうこと? シロちゃんは、その答えを知ってるんでしょ?」
 真摯な疑問だ。
 無邪気と皮肉りたくなるほどに。
「…………僕は……」
「――いい加減にしてください」
 一瞬早く。
 僕よりも先に、誰かの言葉が飛び出した。
 まるで冷水を浴びせるかのように冷たく引き締まった声が、僕の代わりに少女へ答える。
 存分に聞きなれた声だ。
「……華黒。よく見つけたね」
「見つけたも何も見失ってなんかいませんし、さっきからここにいましたよ?」
「…………」
 ランジェリーショップの店名ロゴが入った袋を持ったまま、華黒は平然と答えた。
 本当に優秀な妹だね君は。
「それで楠木さん? あなたの言は兄さんを侮辱……ひいては私に対する敵対とみていいのですね?」
 彼女は刃物のように磨がれた目つきで、憎きを睨みつけた。
「クロちゃん……」
「華黒、落ち着いて……」
「これが落ち着けますかっ!?」
 言の途中で激昂されてしまった。
 あぶない。
 完全に華黒の逆鱗に触れている。
 ビル風に揺れる妹の長い黒髪は、今に怒髪となって天をつきかねない威圧があった。
「兄さんの、兄さんの腕の証を逡巡創などと……! そんなくだらない理由で兄さんが傷ついたなどと……! たかだか自殺しかできない十把一絡げと兄さんを同列視するなどと……! 許されないことですっ!!」
 語気も荒々しく、華黒はナギちゃんへと歩み寄る。
「華黒、僕は気にしてないよ?」
「ええ、そうでしょうとも! 兄さんは “自分を省みる”ことができませんからね!? だから代わって私が言語化すると決めているのです!」
 ……いや、まぁ……そうらしいんだけどさ。
「楠木さん、あなたがあなたのお兄様を大事に想っているのなら何故今すぐにでも御本人に会いにいかないのです? こんなところで誤解と無知の果てに真白兄さんを侮辱することがお兄様への理解の証とでも言うつもりですか? は! とんだお笑い草ですね!?」
「それは! だって……お爺様が……」
「つまり他人の意思に左右される程度の……あなたの打算が働く程度の感情でしかないということですか? 私があなたなら、何に代えてもお兄様の傍にいようとしますけれど?」
「うるさいうるさい! 私の気持ちもわかんないくせに!」
「ええ、私にあなたの心情は理解できません。口でお兄様を心配していながら、やっていることは癇癪のあげくの家出ですか。言動の不一致も甚だしい」
 ナギちゃんの目の前まで歩み寄った華黒が、少女の胸倉をグイと掴み上げた。
 彼女達の顔はもう目と鼻の先だ。
「真白兄さんの傷はですね、そんなクズみたいな理由でついたものではありません。私を守るために傷ついた代物。私を庇って傷ついた証です! あなたが誤解で同情したような理由と兄さんとを一緒にしないでください!」
「うるさいうるさいうるさいうるさーいっ!」
 止まらない華黒と騒ぎ出すナギちゃん。
 腕を振り回すナギちゃんの様は地団駄のそれだ。
 そんな彼女に顔や腕を殴られながらも華黒は掴んだ胸倉を離しはしなかった。
 もうこの場所に静寂さなどありはしない。むしろそんな二人の騒動を聞きつけて大通りの歩道から何事かと覗き込む人がちらほら出てきているくらいで。
 いっそ華黒を止めるべきなんだろうけど先ほど言葉中途に遮られたばかり。
 僕の言葉で止まるかといえば、これは甚だ疑問といえる。
 などと案外のんびりと二人を傍観してると、
「何にも知らないクロちゃんなんかに……あ!」
「あ」
 ナギちゃんと同時に僕は「あ」を口にした。
 そして同じモノを目で追いかけた。
 唐突。
 ハプニングが起きたのだ。
 それも結構重大な。
 振り回されていたナギちゃんの腕が華黒の荷物にぶつかって、それで……
「あぁあっ!?」
 僕ら以上の驚愕が華黒の口から滑り出た。
 ついでに彼女の手荷物から中身が滑り出ていた。
 それは軽やかに風に揺れて、その姿は赤く、繊細な刺繍が見るに栄えて、つまり……先ほどから華黒が持っていた袋のもので……ええと……その……ランジェリーショップの……商品の……シ、ショーツ……うぅ。
 ……ていうか何で赤いの?
 何で真っ赤なの?
 とても下着にあるまじき色をされているんですが、うちの妹はあんなものを……いや、考えないようにしよう。
 目下問題なのはそれが大衆の眼前に晒されようとしていることだろう。
 布製品であるそれは適度に軽量で、小路を吹き抜けるビル風に乗って大通りまでふよふよと舞い飛んでいった。
「兄さんのために買った下着が!」
「ちょっと!? 二重の意味にとれるようなこと言わないでよ!?」
 華黒の悲鳴を看過できずにつっこんでしまう僕。
 第一どちらの意味にとっても僕の人格が疑われるじゃないか。
 などと意味のないやりとりをしている間にもショ……下着は風に流されて。
「あぁ……」
 表通りの歩道を通り抜け、華黒の悲嘆と同時にアスファルトの上へと着地した。
「…………」
「…………」
「…………」
 沈黙。
 気まずい静けさが僕らを支配した。
 唐突に辱められた華黒と、意図せず辱めてしまったナギちゃんと、何と声をかけたものか困っている僕と。
 三人揃って道路に落ちた下着を見つめ続ける。
 歩道を歩く見知らぬ通行人が僕らとそれとを交互に見比べ、何とも言えない表情をしては去っていく。
「……うぅ」
 華黒が呻いた。
 ギギギと錆びたロボット関節のような動きでナギちゃんへと振り返る。
「…………」
 無言の睨み。
「な、何よぉ?」
「兄さんのために新品を買ったのに……」
 ひるむナギちゃんにそんな一言。
「わ、わかったわよぉ。取りにいけばいいんでしょ……!」
 罪悪感に背中を押されてか、ナギちゃんもしぶしぶ華黒に従う。
 もう先ほどまでの諍いは鳴りを潜めてしまっていた。
「(おお、下着で二人の不和が解消してしまった)」
 変な感心をしてしまう。
 ランジェリーショップに連れていかれたときはこんちくしょうなどと思ったものだけど、こんなところで役に立つとは。
 下着を回収しようと道路に飛び出していったナギちゃんの背中を見つめながら、今回ばかりは華黒の迷惑に感謝などしてしまう現金な僕だったり。
 …………。
 ん?
 道路に“飛び出し”ていった?
 誰が?
 ナギちゃんが。
 ちなみに駅近くということもあって道路の交通量は少なくなどない。
 …………。
「っ! 危ないナギちゃんっ!!」
 思考そこに至って、ようやく僕は駆け出した。
 が、既に事態は転がりだしていた。
 踏み出しの一歩目を踏もうとしたその時、すぐ近くでやけにうるさい車のクラクションが僕の耳に鳴りとどいた。

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