超妹理論

『民法七百三十四条』前編


「Ppp! Ppp! Ppp! Ppp!」
 悪意に満ちたアラームが鳴る。
 まどろむ意識とあやふやな世界の境界線が限りなく不明瞭な僕の中を、土足で踏みにじり、無許可に侵入する音が鳴り響く。
 つんざく、という言葉そのままの凌辱。
 思わず眉を寄せる。
「……あう、もう朝か……」
 もぞもぞとベッドを惜しみながらも、腕を伸ばして目覚まし時計を止めた。
 あくびを一つ。出した腕をまた引っ込めようと曲げて、そこで何かが肘に引っかかる。
 ガツンと一発。
 肘鉄をかましてしまったようだ。
「んあ?」
 ベッドに自分以外の何かが有る。寝ぼけた頭でもそれくらいはわかった。
「……あう、もう朝ですか……」
 目覚まし時計のおかげか、肘のせいか。僕と同じ起床の言葉を呟き、そいつは気だるげに這い出してきた。どうやら布団を共有していたのは物体でなく人らしい。
 濡れ羽色したロングヘアーに、綺麗に整った顔立ち。白磁器のような肌には長いまつげと血色のいい唇が華をそえていた。文句なしの美人。そんな秀麗な外見は、クマさんパジャマとのギャップでさらに引き立てられている。
「ちょっとタイマーのセットが早いと思いますけど……」
 水晶のような瞳をこすりながら起きてきた人物は、
「か、華黒!」
「おはようございます兄さん」
 妹だった。
 乱れたクマさんパジャマからのぞく四肢が無駄にあだっぽい。
 さすがに僕も目が覚める。
「また華黒は! 僕の布団に入ってこないでって何回言えば!」
「あんっ、兄さんったら。そんなに動かれると……」
「何言ってるの!?」
 艶のある声から離れようとして、ベッドから転がり落ちた。
 尻餅をついたまま、ベッドの上の妹を見上げる。
「朝から発情しないでよ!?」
「あら、でも兄さんだって……そんなに」
 掛け布団の中から覗くようにして妹。健康男児の朝の宿命に頬を染め、それから僕の顔を見つめ返した。
「その……いいですよ? 兄さんになら」
「僕が駄目なの! ていうかこれは“そういう”ことじゃないから!?」
 にじり寄る妹に、心持ちあとずさる。
「ええ、ええ、わかっています。兄さんが罪悪感を持つ必要はありません。ただ私が一方的にと証言なさればいいのですから」
「それ全然わかってないよね!?」
 首にからみつこうとした妹の両腕を振り払い、僕は慌てて後ろ向きに立ち上がる。
 朝から刺激が強すぎる。心臓が太鼓打ちだ。
 妹にふりまわされる兄なんてまったくもって情けないかぎりだけど、僕とて本意じゃない。
「ち、朝食作ってくる……!」
 華黒と目をあわせることを避けながら、逃げるように部屋を出ていくことしかできそうにない。
 慌てたせいで閉めそこねた部屋のドアから、恨みがましい声が投げられた。
「うー、兄さんの甲斐性なし!」
 ……そんなこと言われてもね。
 

 
 とまぁそんなことがあった朝だけに、学校についたとたん僕はふにゃりと脱力してしまった。
「ふわ……」
 自分の机につっぷして、盛大に憂鬱を吐き出す。顕示するためにしたわけじゃないのだけど、隣の席の人間が食いついてきた。
 瀬野第二高等学校の男子制服の上に、ピコピコ跳ねた癖毛を乗っけているそいつは、
「おー、おー、どうした真白? 朝から空気の抜けた風船みたいになりやがって」
「統夜か……。もうちょっと他の言い方で頼むよ」
 隣の席の酒奉寺統夜だ。この高校に入ってからの付き合いで、僕の知己。恥ずかしい言い方をすれば、友達ってやつだ。
 ……本当に恥ずかしいな。
「例えばさ、統夜」
 ともあれ、指摘されたのであれば説明しなきゃならないだろう。
「君の近くに心理的な問題を抱える人がいたとして、その原因が君であったとしよう。君はその人から距離をおくかい?」
 それでもちょっと遠まわしに言ってみる。
 統夜は答えを探すように黙考して、それからまじまじと僕を見つめてきた。
「それは誰のことを言ってるんだ?」
「や、エド=ゲインに学ぶ犯罪心理についてちょっと……」
「そんな答えで騙そうってんだからすごいよな、お前。なんにせよ華黒ちゃんのことを言ってるのなら、答えは否! だろ?」
 すぐばれた。
「……でもさ」
「常識的に考えて、か? たしかに才色兼備の妹に慕ってもらってる兄貴なんて、目の前に事例がいても信じられんぜ」
「華黒のファンからは睨まれるし」
「当然。正直なところ、こんな優男にあの華黒ちゃんがキュンキュンメラメラってーのもちょっとな」
「友達をつかまえて何て言い草だよ」
「俺でさえ、だ。嫉妬してる奴らの心情考えるに余りあるってことさ」
「う゛……まぁ……ねぇ……」
 返す言葉を探してはみたけど、かえって窮するザマをさらしてしまった。
 実際、華黒の人気ぶりはすさまじい。
「美人なうえに成績優秀。それだけならうちの姉貴も捨てたもんじゃないけど……」
「昴先輩もすごいよね」
 いろんな意味で。
「ただ姉貴と違って穏やかだし、性格もいいし、女性らしいし、そういやファンクラブの集会は今日だったっけな?」
「義理とはいえ、本当に僕の妹なのか不安になるよ」
 そう言って僕らから少し離れた席の、女子たちが談笑している輪っかのほうへ視線を送った。つられて統夜もそちらを見た。
 視線の先には、うちの妹が一人。ちなみに僕は四月二日生まれ。華黒は四月一日生まれ。兄妹でありながら僕らは同学年でクラスメイトだ。
「やっぱ可愛いよな〜華黒ちゃん。華黒ちゃんと同じクラスってだけでもいいのに、たまに遊べる関係にまでなるなんて。俺、お前の友達でよかったぜ」
「微妙に嬉しくないよ、それ」
 嘆息しながらも目線はそのまま。
 輪っかの中でどっと笑いが沸くと、合わせるように華黒も微笑む。顔立ちを崩すことなく、あくまで上品に。
「同性にしちゃ嫉妬の対象だろうに。ああやって好かれてるってのは本当にいい子だってことだよな」
 猫かぶってるだけなんだけどね。
「あはは、はは……」
 笑って誤魔化す。
 そうやって何となくながらに観察してると、こちらの視線に気付いた華黒が一瞬だけ目を合わせてきた。
 ―― チュ♪
 口先を小さく突き出して僕に投げキッスをすると、またクラスメイトたちとの談笑に混じってしまう。クラスのほとんどはそのやりとりに気付かない。
 気付いたのは、
「おい、今のは……」
 統夜くらいのものだ。思わず溜息が出る。
「あーもう、学校ではしないでって言っておいたのに」
 何で止めないかなぁ、ほんと。
「きっとなんとかしなきゃ……いけないんだよね」
 義理といっても相手は妹だ。
 僕は本日二度目の溜息を吐くと、また机に突っ伏した。
 

 
 とはいえ、なんとかしなきゃと悩んでみても、それは授業を聞き流す口実にしかならないわけで。完璧超人の妹とは違って僕はそこまで真面目ではなく、ぼけーっと午前中の授業を右から左にベルトコンベアーだった。
 ついでに、授業を惜しみ悩んだところで簡単に答えなど出るはずもなく、なんとかしなきゃの“なんとか”は明確な回答をえないまま空中分解していく有様だ。
 当たり前といえば当たり前。もう数十回、数百回と検討してきた題目だ。そう都合よく解決するわけもなく、糸口を探しては見失うばかり。
「対策その一」
 兄としての人望を失墜させる。
 つまりは華黒の異常なまでの家族愛(家族愛ったら家族愛なのである)の矛先を潰してみる。
「……一番難しいかも」
 たとえ僕がニートになったところでだめんず・うぉ〜か〜よろしく養ってくれるだろうし、ムショに入っても毎日面会に来るだろう。これは自信なんて高尚なものではなく、彼女を分析した結果として、だ。
「……兄……その…………」
「対策その二」
 僕が彼女を作る。
「無理」
 いまだもって女子とお付き合いしたことない僕に何が出来るというのか。
「……兄さ…………少し……。……ぃさん……」
 なんだか雑音がちらつくんだけど、考え事をしてるので無視。
「対策その三」
 華黒が恋人を作る。
「これが一番堅実なはずなんだけどなぁ」
 引く手数多な自慢の妹だ。
 やる気さえ見せればカップラーメンより早くできあがる。
 どこかに華黒のハートを奪えるような猛者はいないものか。
「なんだってあんな偏食になったのやら――」
「…………ふっ」
「ひぇあっ!?」
 耳に息を吹きかけられた。
 背中にゾクリと悪寒がはしり、僕は思わず起立してしまう。
「ふふ、感じちゃいました?」
「何を……って華黒!? 顔近いよ!?」
 焦点を合わせた目の前で、妹が僕を見つめ返していた。
「もうとっくに昼休みですよ。しっかりしてくださいな」
「あれ?」
 言われて辺りを見回してみると、たしかに皆々が昼食をとっていた。
 とっくに四限目など終わっていたようだ。
 教室の人数が三分の二ていどまで減っているのは、おそらく購買と学食のせいだろう。
「了解。ちょっと待って。ついでに離れて。財布を取り出さなきゃ」
「あんっ」
 左手でグイと華黒の顔をおしのけて、余った右手でカバンの中の教科書をかき分け底の方にある財布を掴む。
「じゃ、学食行こっか」
「その前に少し寄るところが……」
 けれど用事はそれだけじゃなかったらしい。
 言いにくそうに目を泳がせながら、華黒はきりだした。
「私、屋上に呼ばれているんです」
「なるほど。対策その三……か」
 一人納得する。
「何のことです?」
「いや、何でもないよ。それで?」
「兄さんにもついてきてほしいなぁって思って……駄目ですか?」
「…………」
 僕の沈黙は消極的な否定の明示だ。
 それを察せない華黒ではないけど、逆に撤回もしないだろう。なにせこれは“いつものこと”なのだから。
「あの、どうしても駄目なら。でも、兄さんにいてもらわないと、私……」
「…………わかったよ。行こう」
 つくづく僕もあまい。
 歩き出さない妹を先導するために、僕は先行して屋上を目指した。
「待ってください兄さん」
 慌ててついてくる気配が後ろに。
 それと、
「あ〜あ、またしゃしゃりでる気だよあのシスコン」
「メンヘラに何言ってもしょうがないわよ。相手の男子が可哀想だけど」
 そんな非難がましい呟きが教室のあちこちから。
「はぁ」
 溜息一つ。
 僕だってそんなことわかってるけど、でも仮に華黒があいつらの妹だったら彼女の頼みを放っておけるのかなって、そうも思う。
 ……全く、救いがたい。
 

 
 さっきの陰口もしかり、校内での僕の噂というものは聞いていて気持ちのいいものではない。
『百墨真白は重度のシスコン。華黒ちゃんも可哀想に』
 学校でまことしやかに流れる僕の風評を平均してみれば、だいたいこういう言葉に収束される。
 実態がまるで真逆なことを知っているのは統夜をはじめ限られた人間だけで、多くの生徒は先の評価を鵜呑みにして吐き出すことはない。
 鵜飼に出来ない連中だが、理由がないわけでもないのだ。これが。
 僕が妹にまとわりついている、なんて噂される直接的な原因の一つに、
「お待たせしました」
「華黒さん! ……って、メンヘラ兄貴も一緒かよ」
「どうも」
 コレがある。
 しかしメンヘラ兄貴とはこれまた初めて会うのに失礼な人だ。こちらはお辞儀までしたのに。
 屋上で待っていた男は、僕の姿を確認するなりあからさまに機嫌を崩していた。
 教師に怒られない程度に脱色した茶髪が目につく。体育会系か、はたまたプレイボーイか。少なくとも「趣味は読書です」なんて言い出すことはないだろう、多分。
 その茶髪さんがこちらを睨む。
「たしか真白っていったっけ? あのさ、これから俺たちが何するか知ってるわけ?」
「概ね」
 屋上の風に目を細めながら僕は答えた。
「わかっててここにきたわけ? なに考えてんのお前?」
「何も」
「てめっ!」
 あくまで背景に徹しようとする僕の心遣いに何か不満でもあったのか。茶髪さんは今にも殴りかからんとして、
「止めてください」
 華黒の言葉にピタリと止まった。
 ちょっと面白い。
「兄さんを連れてきたのは私です。不満があるなら私にどうぞ」
 強い意志を宿した両眼で、僕を庇いながら睨みつける華黒。美人というだけでなく生き生きとした瞳も華黒の人気の一因なのだが、ひるがえって彼女の視線に刺された場合の凄みもまた大層なものだろう。相手の男が一歩引く。
「あ、いや、別に華黒さんに不満なんて……」
 妹にはさん付けで、しかも素直なのね。
「でもさ、一応書いてたよね? 兄貴は連れてこないでって」
「ええ、拝見しました」
「何で連れてきたわけ? 兄貴空気読めてないじゃん?」
 耳が痛い。
「あの文面に強制力を感じませんでしたので順守することもないと判断しただけです。第一、私が兄さんをこの場に連れてくるのはいつものことですし、そうするなとの要求をした時点でこうなる可能性を覚悟されているものと解釈しましたが?」
「そうだけど……」
「不満ですか?」
「だから別に不満なんて……」
 こっち睨みながら言われても説得力はないんだけどね。
「背景や空気のように思って気にしないのが一番だよ」
 その視線にひらひらと手を振りながら、親切なアドバイスをあげる。
 男は小さく舌打ちをして、無視を決め込んだ。諦めたらしい。
 いいこといいこと。
 近頃は実力行使で僕を排除しようとする人が多かったから、こういう理解のある人はとても助かる。
「それで話したいこととは何でしょうか?」
「あ、いや、そのよ……」
「私も兄さんもまだ昼食を終えてないんです。できれば早めにお願いしますね」
 催促する華黒に、うろたえる男。彼にしてみれば耳を疑う内容だろう。何せいつも真面目で誰にでも優しい百墨華黒。我が瀬野第二高等学校が誇るカリスマ少女。彼女の口から出てくる言葉にしては、少しばかり辛すぎる。
 そして華黒も華黒でいい性格をしている。異性を手紙で屋上に呼び出す必然性なんてある程度限られてくるのだから、中々言い出せなくて当然だろうに。
 期待どころか動揺さえもしていない妹を見ていると、勇気を振り絞って言葉を紡ごうとする彼に少しばかり同情してしまおうというものだ。
「あ、あの……! 華黒さん!」
 覚悟完了したのだろう。
 心も体もガチガチのままで、それでも言葉だけはスラリと言い切った。
 お見事。
 さて、昼御飯だ。
 ……そうだな。今日は肉うどんでも食べようかな。

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