ご主人様と呼ばないで

ご主人様と呼ばないで 、3


「草津良いお湯一度はおいで〜ってな」
 夕食が終わった後、アキと姫々は仲良く皿洗いをして片づけを終えると、姫々は自身の家へと帰っていった。
 そしてアキが風呂に湯を張って本人曰く、
「風呂の準備が出来ました故どうぞご主人様」
 と俺に入浴を勧めるのだった。
 俺は脱衣所で服を脱いで先のような歌とも言えない歌を口ずさみながら浴場に入る。
 シャワーを頭から浴びて体を温め、そしてシャンプーで髪を洗う。
 ワシャワシャと髪を泡立てていると、
「失礼します」
 と背後から声が聞こえた。
 カララと浴場のドアが開き……誰かが入ってくる気配というか感覚というかそういったモノが感じ取れる。
「…………」
 沈黙する俺。
 髪を洗う手もピタリと止まってしまう。
「…………」
 言葉を探しては喉を通る前に雲散霧消してしまう。
 何を言うべきか。
 何を言わざるをえないか。
 わかっちゃいるんだが……。
 ともあれ、
「はあ〜……」
 と長い溜息をついて、
「何の冗談だアキ?」
 俺はやっと言葉を絞り出す。
 浴場の侵入者……アキに向かって。
「それは……」
「それは?」
「ご主人様のせいです」
「ほう?」
 そろそろこの空間の圧迫感にも慣れてきた。
 滑るように言葉が出る。
「不埒を働いておいてそれをご主人様のせいにするとは心臓だな」
「それについては謝罪します。申し訳ありません」
 率直なアキの言葉。
「で?」
「とは?」
「何の用だ?」
「ご主人様の御背中を流そうかと」
 俺は、
「はあ〜……」
 と二度目の長い溜息をついた後、
「間に合ってる」
 と結論付ける。
 しかしてアキは譲らなかった。
「大丈夫です」
 何がだ?
「ご主人様に怒られないように水着をつけていますから」
 ああ……そう……。
 他にどう思えと?
「それでは失礼します」
 そう言いアキはボディソープをタオルに塗ったのだろう……俺の背中をワシャワシャと洗い出した。
 ちなみに映像化は出来ない。
 念のため。
 何故って?
 髪を洗ってるから目を開けられないんだよ。
 そんなわけで瞼の裏を眺めながらワシャワシャと俺は髪を洗いつづける。
 アキもアキで慣れたもので、
「…………」
 淡々と俺の体を洗うのだった。
「少しサービスをいたしましょうか?」
 そう問うてくるアキ。
「サービス?」
「はい」
「どういうものかによるな」
「殿方にとって……女性の体にボディソープを塗りたくり胸を押し付けて背中を洗うのが一つの栄誉だと聞いたもので」
「却下」
 一刀両断。
「私では不足でしょうか?」
「不足だ」
 本当は不足ではないが俺の理性にも限度がある。
「こういうことは止めろと出会ったあの日に言ったろう」
「ご主人様と主従となったあの日ですね」
「そ」
 俺は頷く。
 その間にもアキは俺の体を洗っていく。
 簡略。
 俺とアキは俺の体の全てを洗い終わった後、シャワーを浴びた。
 流れるシャンプーとボディソープ。
 念入りに洗った後、俺は、
「ふい〜」
 と吐息をついて風呂に入るのだった。
 お湯が染みる。
 夏ではあるがお湯の温かさは少しも不快ではない。
 それから決して広くはない浴場の……その場にいるアキに目をやる。
 花柄のビキニ……音々によって沖縄旅行のために買った一品だ……を身につけているアキだった。
「どうでしょう? ドキドキしますか?」
 おずおずと問うてくるアキ。
 これが年上の美女なら挑発的に言うのだろうが、生憎とアキはそんな精神など欠片も持ち合わせてはいない。
「ご主人様」
「はいはい?」
「これから私は水着を脱ぎます」
「好きにしろよ」
 俺は目を閉じて映像をシャットアウトし、湯船に肩までつかる。
「見てくださっても構いませんよ?」
「気が向いたらな」
 ポカポカと暖かな快感に浸った。
 ワシャワシャと髪と体を洗う音が浴場に響く。
 おそらくアキが全裸になって体を洗っているのだろう。
 プロポーションのいいアキの体なのだから、それは極上の映像となっているのだろうが生憎と俺は目を閉じているため見ることは叶わなかった。
 これが残念なのかヘタレなのかは後世の研究者に任せることとしよう。
 そして体を洗い終わった後、花柄ビキニを再度着てアキも風呂に入る。
 そこでようやく俺は瞳を開ける。
 白い髪に白い瞳……および白い肌を持つ美少女が俺と一緒に風呂に入っている。
 豊満な胸は姫々にも音々にもないモノだ。
 目に毒と云う言葉が良く合った。
 さて……。
「どういうつもりだ?」
「ご主人様のご機嫌をとるのも奴隷の仕事です」
 そりゃまたご苦労なこって。
「ご主人様は城野様のことを想い煩っているんですよね」
「だぁな」
 嘘をついてもしょうがない。
 アキには全て話し終えているのだ。
 これ以上隠す手札は俺には無かった。
「で? お前も俺のトラウマに何か言う事があるのか?」
「はい」
「アキラのことを忘れろってんだろ? 耳にタコができるほど聞いたぞ。姫々にも……音々にも……な」
「違います」
 妙にキッパリとアキは言った。
「…………」
 意図がわからず沈黙してしまう。
「むしろ逆です」
「逆?」
「はい」
 アキは白い瞳をまっすぐ俺の瞳に向けて言った。
「忘れてはいけません。ご主人様は城野様のことを忘れてはいけません」
「珍しい意見だな」
「ご主人様が城野様のことを忘れたらそこで城野様の存在は無意味に成り下がります。それは最も忌避すべきことです」
「けどな。誰もが俺にアキラのことを忘れろと言ってくる。それは呪いだと……呪縛だと……しがらみだと……」
「けれど」
 アキは言う。
「本当に大切なモノはご主人様の胸の内にあるはずです」
「……っ」
 それは……、
「…………っ」
 言ってもらってはいけない類の言葉だった。
「アキ……お前は……俺にアキラを諦めるなって……そんなことを……そんな戯言を……言っているのか……?」
「はい。例え胸の内にしか既に城野様がいないのなら……その胸の内の城野様こそご主人様の大切になさるべき価値観です」
 誰もが言わなかったことをアキは平然と言うのだった。
「自殺だろ」
「引きずるな」
「気にしちゃ駄目だよ」
「それは呪いだ」
 そんな言葉が浮かんでは消えていく。
 誰かに言われた記憶の残滓。
 それなのにアキは忘れてはいけないと言う。
 心に棘のように引っ掛かっているこの煩わしい感情こそが俺にとって最も大事な価値なのだと……そう言ってくれる。
 不意に、
「ご主人様……」
 アキが俺を抱きしめる。
 俺の頭部にムニュウと豊満な胸が押し付けられる。
「ご主人様が忘れられないという一点のみがご主人様にとっての城野様への想いの証明なのですから」
「でもアキラはもういない……」
「ご主人様の心の内にいますよ」
「それは感傷だ」
「それが悪いと誰が言いました?」
「……いいのか?」
「何がでしょう?」
「俺はアキラを想っていいのか? 俺は俺の殺した相手に憐憫を覚えていいのか?」
「無論のこと、そうでなければなりません。少なくともご主人様が城野様を大切だと思っている内は……」
「俺は……俺はさぁ……」
 言葉の見つからない俺を抱擁から解放すると、
「…………」
 アキは無言で俺の唇に唇を重ねた。
 いわゆる一つのキス。
「アキ……?」
「ご主人様がどれだけ城野様を想っているか……それをもう私は知っています。ですから忘れろなんて傲慢なことは申せません」
 ニッコリとアキは笑う。
「ただ……その重荷を私にも少しだけでいいので預けてはくれませんか? きっと役に立ちます故……」
「アキ……お前……」
「はいな。それがアキに出来る唯一のこと。アキがご主人様を想うにあたって出来るただ一つのことです」
「俺は……アキラがいればそれでよかったんだ……」
「知ってます」
「俺は……アキラと一緒にいればそれでよかったんだ……」
「知ってます」
「俺は……」
「大丈夫です。全てを承知していますから」

「きっといる。日日日を絶望から救ってくれる人がきっといる。だからその人と日日日は幸せになって。きっと……きっとだよ?」

 アキラの最後の言葉を思い出す俺。
 アキを見る。
「お前は……アキは……」
「何でしょう?」
「俺にアキラがいることを前提で……俺を想ってくれるのか?」
「はいな」
 躊躇いなど微塵もなかった。
「私はご主人様が好きです。ですから城野様の後背に立つことに躊躇はありません。城野様へのご主人様の想いを……重しを……完全にとはいかなくても幾ばくか……少しでも軽くできるのなら……これに勝るはありません」
「俺は……俺はよぅ……」
 涙を流す俺。
 この涙が何処から来るのか俺にはわからない。
「アキラとだけ一緒にいればそれで良かったんだよ。でもそれがアキラの重荷になったんだ。俺がアキラを殺したんだ」
「わかります。ですから幾らでも思い悩んでください。私が及ばずながら支えます故」
「アキラのことを……アキが……?」
「さっきからそう言っております」
 そして再度アキは俺にキスをする。
「……っ!」
 絶句する俺。
 キスを終えるとアキは俺を見据えて言う。
「想いが重いのならいくらでも私が支えます。ですからご主人様は城野様を想い煩ってくださいな」
 なら俺の言う事は一つだ。
「ありがとな。アキ……」
「滅相もございません」
「俺にはアキラがいる。それは承知してくれるな?」
「無論です」
「でも……」
「でも?」
「アキ……お前を大事にしてもいいだろうか?」
「何ゆえです?」
「お前が初めてなんだ」
「何がです?」
「アキラの存在を認めてくれた人間が……」
「…………」
「誰も彼もがアキラのことを忘れろって言ってくる。誰も彼もが引きずるなって言ってくる。お前が初めてなんだ。俺の胸の内のアキラを認めてくれたのは」
「ご主人様を追い詰めて申し訳ない限りです……」
「違う。俺はお前に感動している。だから……!」
 俺はアキを抱きしめる。
「アキ……ありがとう……認めてくれてありがとう……」
 涙を流しながら俺は感謝の言葉を紡ぐ。
「ご主人様……」
「俺はアキラを諦めない。それでもアキに感謝する」
「恐縮です」
「だからアキ……」
「何でしょう?」
「ご主人様と呼ばないで」
 俺は好意ゆえにそう言った。

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