ご主人様と呼ばないで

届かない声、1


 中学一年の春。
 とは言っても入学式の季節ではない。
 入学式から約一年後の春。
 今は三月の中旬である。
 年度の移り変わり。
 春休み直前にして、来月には中学二年生になる時系列。
 卒業式も終わり……生憎と桜は咲かなかったが……通常授業に戻る俺たち在校生。
 卒業式が終わった後に桜が咲くってのも皮肉な話だ。
 ともあれ俺はSFの本を学校の隅の桜の樹の下で読み、そして読了すると学ランの肩にかかった桜の花びらをパンパンと払い落し、図書室へと本を返すために歩いていた。
 時間は放課後。
 日々温かくなっていく日常を心地よく感じながら俺は図書室への近道として中庭を進行ルートに選んだ。
 一般棟と特科棟にサンドイッチされた中庭は、その二つの棟の端が渡り廊下で繋がっているため解放感は無く圧迫感を覚えた。
 俺の考えすぎかもしれないが。
 中庭はベンチが一つ置いてあり、うららかな日差しが差し込む陽気な空間……と捉えることも無理ではない。
 そのベンチに一人の男子学生と一人の女子生徒が座って仲睦まじく幸せオーラを発していた。
 爆発しないか。
 そんなことを思う。
 俺にも幼馴染の姫々がいるし、姫々の想いにも気付いてはいる。
 行動に移しさえすればリア充になるのは難しくない。
 ただそんな自分に自己嫌悪を覚えるので姫々の想いに気付かない……気付いていないふりをしているのだが。
 とまれ、
「…………」
 フイとリア充から視線を外して中庭を通り過ぎ、渡り廊下の下を潜ろうとした瞬間、
「ばーか」
 と云った稚拙な言葉とともに水が俺に降りかかった。
「…………」
 思わず沈黙する俺。
 虐められたから?
 否。
 ちょうど俺とすれ違おうとした生徒まで巻き込んでしまったからだ。
 見ればソイツは……彼女は……美少女だった。
 オレンジ色の髪はショート。
 瞳の色もオレンジ色だった。
 黄色人種にしては肌は白く、スレンダーな体つき……って何を観察しているんだろうな俺は。
 セーラー服が憎いくらい似合っているが、今は濡れ鼠と言った有様だ。
 俺もだが。
 頭上の渡り廊下に視線をやったが既に誰もいなかった。
 性質の悪いイタズラだ。
 人に恨まれることをしていたつもりはないが、まぁこういうこともあるのだろう。
 俺は、
「あー……」
 と呻いて、
「大丈夫か?」
 そうオレンジの美少女に問うた。
「………………あう」
 と聞き損ないそうなほどか弱い声で呻いた後、
「………………ごめん……なさい」
 とオレンジの髪の少女は謝ってきた。
 意味がわからない。
「何で急に謝るんだ?」
「………………巻き込んで……しまって」
 あー、つまり、
「虐められているの? 君は……えーっと……」
「………………城野……アキラ」
「城野さんね。俺は日日ノ日日日」
「………………ひびの……あきら?」
「そう。日日ノ日日日。同じ名だな」
 濡れた髪をかきあげながら俺は言う。
「………………日日ノさん……ごめん……なさい」
「謝る必要なんて無いぞ?」
「………………でも……アキラの……せいで」
「それは違う」
 俺は否定した。
「根本的な原因は虐める側にある。お前が……城野さんが思い煩う必要は無いぞ?」
「………………ふえ……でも……」
 城野さんは言う。
「………………アキラと……すれ違っちゃったから……日日ノさんは……」
「だからそれは虐める側がいなければいい話だろう?」
 俺は煩わしくなって結論だけを言う。
「お前は虐められてるのか?」
「………………うん」
 コクリと遠慮がちに頷く城野さん。
「そっか」
 俺は「気にしていない」と言外に含めて、
「とりあえず」
 と話題を変えた。
「俺もお前も濡れ鼠だな。着替えようぜ。ロッカー室までついていってやるよ」
「………………うん」
 ポタリとオレンジの髪から滴を垂らすと、城野さんはニッコリと笑った。
「……っ!」
 それがまたとても可愛らしく……、
「…………」
 俺は自分に芽生えた感情に慌てふためくのだった。
 そんな感情に気付かせないように俺は、
「あーあ」
 と言った。
「虐めっ子のせいで借りた本がビショビショだ。俺が弁償するしかないのか?」
「………………ごめん……なさい」
「だから謝るな」
 憤慨する。
「お前が悪いわけじゃないだろ?」
「………………アキラが……悪い……よ?」
「どんだけ自虐的なんだお前は」
 俺は城野さんの手を握った。
 そして言う。
「アキラって呼んでいいか?」
「………………いい……けど」
「俺のことも日日日と呼べ」
「………………いい……の?」
「構わん」
「………………日日日……」
「そう。それでいい。じゃロッカー室に行こう。ジャージぐらい持ってるだろ? 着替えようぜ」
「………………でも……タオル……持ってない」
「ならまずは保健室だな。タオルを借りよう」
 そして俺はアキラの手を握ったまま保健室へと引っ連れて歩く。

    *

 保健室でタオルを借りて水気を拭きとり、それからロッカールームでジャージに着替える俺とアキラ。
 それからまた保健室へと舞い戻ってビニール袋をもらい、俺とアキラは濡れた制服を袋に詰めるのだった。
「………………日日日」
 とアキラが言う。
「なんだ?」
 俺が問う。
「………………ありがと」
 モジモジとしながらアキラ。
 可愛い可愛い。
「日日ノ」
 と養護教諭が俺を呼ぶ。
「何でしょう?」
「少し話がある」
「はあ」
 俺はポカンとして、
「どうぞ何でも仰って下さい。受け入れるかは俺次第ですが」
 そんな皮肉を口にする。
「城野さん?」
 これは養護教諭。
「………………何ですか?」
 アキラはおずおずと問う。
「今日はもう帰りなさい。帰ったら温かいシャワーを浴びるんですよ。春先ですから風邪をひく可能性も無きにしも非ず……ですから」
「………………はい」
 頷いて、それからアキラは俺を見る。
「………………日日日……」
「なんだ?」
「………………ありがと」
「別に何もしてねえよ」
「………………それから」
「まだあるのか」
「………………ごめんなさい」
 だーかーらー。
「それはお前のせいじゃないだろう?」
「………………ふえ……ごめん……なさい」
「そこで謝る必要もねーよ」
「………………ふえ」
 それきり言葉を失って、
「………………じゃあ……アキラは……これで」
 すごすごとアキラは保健室から出ていった。
 それを見送った後、
「…………」
 俺は養護教諭へと視線をやる。
「で?」
 問うた。
「何の用ですか」
 俺がそう言うと、
「…………」
 養護教諭は煙草の紙パックを取り出しトントンと叩いて紙巻き煙草の一本を取り出すと、口にくわえて火をつける。
 それから、
「ああ、タバコを吸ってもいいかい?」
 今更な質問をするのだった。
「別に構いませんが……確認が遅いんじゃありませんか?」
「既成事実を作った方が説得がはるかに楽だからな」
「…………」
 一本取られた気分になるのはしょうがないことだった。
「最近は副流煙なぞ色々と喫煙者にとっては煩わしい世の中だからな」
「酒はともかくタバコはメリットがありませんからね」
「気持ちよくなれるぞ?」
「さいですか」
 そして俺は違和感を覚える。
「ところでなんでアキラには丁寧な口調だったのに俺にはフランクなんです?」
「しょうがないだろう。城野は距離を置かないと安定しないんだから」
「それは……」
 わからないでもない。
 虐められっ子の精神はわかりかねるが、想像は出来る。
 想像が出来ない奴をして虐めっ子と呼ぶのだろうが。
 閑話休題。
「で? 何の用です?」
「率直に言う。城野を助けてやってくれないか」
「アキラを?」
「然りだ」
 フーッと煙を吐く養護教諭。
「虐めっ子から守れと?」
「然りだ」
「何故俺です?」
「お前の城野に対する態度でわかったよ。お前は城野を大切にしている」
「しかして俺とアキラは別のクラスなんですが……」
「それもこの三月で終わる。来年度からのクラス編成に私が進言しよう」
「俺とアキラを一緒にするように……ですか?」
「そういうことだ」
「…………」
「不満か?」
「いえ、それ自体は構いませんよ?」
 俺はフルフルと首を振る。
「ただ……」
「ただ?」
「そんな義理が何処にあるかが問題ですね」
「美少女が虐められてるんだ。それを助けるのは男の本懐だろう?」
「まぁ可愛くはありますが……」
「なんなら付き合ってもいいぞ。私は黙認しよう」
「ありえないセリフを聞いた気がするんですが……」
 俺はフッと吐息をつく。
「そも何でアキラは虐められているんです?」
「恋愛事情」
 恋愛……ね……。
「とある女子がとある男子に告白したら『城野が好きだから断る』と言ったそうだ」
 特別取り上げる必要もない理由だった。
「で、逆恨みした女子の所属するグループが城野を虐め出したという顛末だな」
「告白された男子はアキラを守らなかったんですか?」
「そんな理由も理屈もあるまい」
 それは……その通りだが……。
「ともあれ二年への進級と同時にお前と城野を同じクラスに分別する。出来る限りフォローしてやってくれ」
「虐めっ子についてはどうするんです?」
「なるたけクラスを離す。それ以上は出来ん」
「あいあいさー」
 俺は状況を受け入れることにしたのだった。

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