ご主人様と呼ばないで

稲生花々という少女、1


「…………」
「…………」
 二人の間に緊張が走る。
 そんな二人を見据えられる位置に立った審判が手を振り降し、
「始め!」
 と叫んだ。
 同時に二人は動く。
 片方は黒いロングヘアーに日本人形のような端正な顔立ちをした美少女改め男の娘である。
 つまり蕪木音々だ。
 もう片方は空手部の主将。
 全国大会にも行ったことのあるツワモノ。
 巌のような人間……と言えばしっくりくる外見だ。
 音々はまるで散歩のように気構えることなく空手部主将の制圏へと入っていく。
 対して主将はジリジリと後方に下がっていく。
 まぁそりゃそうだろう。
 相手は何と言っても蕪木音々だ。
 音々の実力を雪柳学園の生徒が知ったのはつい最近だが、それでもあんな美少女……もとい男の娘が圧倒的なまでの戦力を有しているというのはゴシップとしては上等なのである。
 さて、間合いも詰まってきた頃合いだ。
 主将は意を決して制圏を前方に広げる。
 制圏を全方位に広げている音々とは対称的だ。
「せいいいいいいいいいいいっ!」
 獅子の吼えるような掛け声の後、
「はぁっ!」
 と主将は正拳突きを放った。
 中々の速さだ。
 さすがに空手部で主将に選ばれただけのことはある……そんな感慨を思わずにはいられない素晴らしい正拳突きだった。
 ただし相手が悪い。
 音々はまっすぐ飛んできた主将の拳を片手で受け止めた。
 パシンと音々の手を主将の拳が打つ音が広がる。
 受け止められた拳を引こうとする主将だったが、それは叶わなかった。
 音々の握力が主将の拳を捕えて離さなかったからだ。
 これで間合いは零距離である。
「…………っ!」
 動揺している主将は腰に力を溜めて、
「しっ!」
 と膝蹴りを音々に叩きこもうとしたが……音々のもう片方の手に防がれた。
 片足になった主将の体勢を見計らって足払いをかける音々。
 あっさりと体勢を崩される主将。
 その主将の鳩尾に音々は一本拳を打ち込むのだった。
「げ……! はぁっ!」
 悶絶する主将。
 痛み故にお腹を押さえながらうずくまり、逆流する気道に耐えきれずよだれを垂らしながら、強烈な痛みに耐えるのだった。
 ……哀れ。
 さらに追撃をかけようとする音々を察した審判が、
「そこまで!」
 と終わりの合図を放った。
「ちっ……!」
 舌打ちする音々。
 ちっ……って、お前さん。
 冷や汗をかく俺。
 そして周囲の人間は、
「「「「「空手部の主将でも歯が立たねえのかよ……」」」」」
「「「「「音々ちゃんマジパネェ……」」」」」
「「「「「勝てるわけねえよあんなん」」」」」
 と絶望を吐露した。
 まぁ彼らの絶望の具合はわからないでもない。
『蕪木音々に組手で勝つこと』
 それが武術研究会に入るための条件だからだ。
 最初の内は音々を甘く見ていた参加者で溢れていたのだが、音々の持つ戦力を知るや諦める人間が続出。
 それでも試験を受けようとしてくるのは此度の空手部の主将のように腕に覚えがある人間だけだ。
 その空手部主将もあっさりとやられたわけだが。
 さすがにこれで武術研究会に入ろうとする物好きはいなくなることだろう。
 俺だって彼らの立場なら諸手を挙げて降参する。
「やれやれ……」
 俺はこのジョークのような光景に嘆息した。
 そんな俺に、
「あーきらっ! 勝ったよ!」
 音々はそう言って無邪気にピースをするのだった。
 まるで誇らしげにカブトムシを掲げる少年のような笑顔だった。
 無邪気とはまさにコイツのためにある言葉だろう。
 と、そこに、
「お姉様ー!」
 と金髪碧眼の美少女が音々に抱きついた。
「お姉様お姉様お姉様ー! お姉様はやっぱりすごいですー!」
 金髪碧眼の美少女……稲生花々は音々に抱きついたばかりか音々の胸板に頬を擦り付けるのだった。
 それがまた猫同士が戯れ合っているようで可愛らしいのだが、
「花々、離れてよ」
 音々の方はというとうんざりといった感じらしい。
「花々、感激しました! お姉様がこんなにもお強いなんて! いえ、それは花々を助けていただいた時にわかっていたことではあるのですけど……ともあれお姉様の強さに感服仕ります!」
 すりすりと頬を音々の胸板に擦り続ける花々に、我慢の限界をオーバーしてしまったのか……、
「えい」
 と音々は花々の頭部にチョップをかました。
 それがまた小気味よい音となって空間に広がる。
 そして頭を押さえて花々が痛がる。
「何するんですのお姉様〜……」
「いい加減抱きつくの止めてよ。僕の体は日日日のモノだから」
「あんな……!」
 と花々は道場に隅に座っている俺を指差して、
「あんな男のどこがいいんですの?」
 そう問うた。
 確かに正論だ。
 音々にしろアキにしろ姫々にしろ俺のどこがいいのか聞いてみたい所存だ。
 それに対して音々はキッパリと言った。
「僕が困っている時に王子様みたいに助けてくれるところ……とか」
 音々はそんな戯けたことを言った。
「お姉様は騙されてるんです! インプリンティングです!」
「そうかなぁ?」
 どうかなぁ?
 とまれ、
「本当にお前ら……俺なんかの何処がいいの?」
 そう問う俺。
「「「……格好いいところ」」」
 とアキと姫々と音々は照れながらそう言った。
 そりゃ趣味が悪いこって。
 それ以外に答えられる言葉があるのなら教えてほしい。

    *

 ある日の昼休み。
 アキが躊躇いがちに、
「ご主人様、お口をお開けください」
 そう言って俺の口元までダシ巻きを持ってくる。
 俺はというと、
「あ〜ん」
 と口をツバメの雛のように開けて餌をくわえこむ。
 咀嚼。
 そして嚥下。
「どうでしょう? ご主人様……」
 おずおずと問うてくるアキに、
「ん。丁寧で美味い」
 と俺は答える。
 アキの表情がパァーッと華やかに広がって、
「えへへぇ」
 としきりに恥じらった。
 今度は姫々が負けじとばかりに、
「日日日ちゃん、あ〜ん」
 と酢豚を俺の口元まで持ってくる。
 俺はというと、
「あ〜ん」
 と口をツバメの雛のように開けて餌をくわえこむ。
 咀嚼。
 そして嚥下。
「どう? 日日日ちゃん?」
 おずおずと問うてくる姫々に、
「ん。いつも通りの家庭の味だな」
 と俺は答える。
 姫々の表情がパァーッと華やかに広がって、
「えへへぇ」
 としきりに恥じらった。
 次は音々が対抗するように、
「日日日、あ〜ん」
 仏屋のフランス弁当のフォアグラを俺の口元まで持ってくる。
 俺はというと、
「あ〜ん」
 と口をツバメの雛のように開けて餌をくわえこむ……より早く、
「あ〜ん、む」
 と花々がフォアグラを食べてしまった。
 咀嚼。
 そして嚥下。
 花々の表情がパァーッと華やかに広がって、
「えへへぇ。美味しいですお姉様……」
 としきりに恥じらった。
「なんで花々が食べてるのさ!」
 憤慨する音々だった。
「美味しかったか? 花々……」
 と問う俺に、
「はいな!」
 と快活に答える花々だった。
「誰が日日日の分のお弁当食べていいって言いましたか!」
「だってお姉様が差し出すまでもなく日日日先輩はアキ先輩と姫々先輩に至れり尽くせりじゃないですか……。どこの大奥ですかここは」
「武術研究会の会室だが」
「完全に日日日先輩のハーレムじゃないですか! 花々、クラスメイトに問われたんですから!」
「なんと?」
「あなたまで日日日先輩のハーレムに入ったのって」
「そりゃまぁそうなるわな」
「違うって言っても聞かないんですよ。あの年のお子様は恋とか愛とかの字を見るだけで興奮しますから」
 同い年だろうが。
 そんなツッコミはいれず、
「まぁ……ここが俺のためのハーレムだという認識はそう間違ったモノとは思えないんだがな……」
 パイプ椅子に背もたれながら俺。
「日日日先輩!」
「何でがしょ?」
「二人きりで話があります!」
「ここで言え」
「それはできません!」
「不都合な話か?」
「場合によっては!」
 明朗な花々の言葉に頷いて、俺は立ち上がった。
「なら場所を変えるか……アキ、姫々、音々。ここで飯食ったら先に教室に戻っていていいぞ。じゃあ行くか花々」
「「「…………」」」
 沈黙するかしまし娘を放っておいて、俺は花々と肩を並べて外に出た。
 それから俺と花々は自販機でコーヒーを買って、校舎裏へと身を置いた。
 その間、花々はといえばムスーッと機嫌悪くしていた。
 日の光の当たらない校舎裏へと行き、誰もいないことを確認すると、
「で?」
 俺は校舎の壁にもたれかかってコーヒーを飲みながら花々を促した。
「なんの話だ?」
「どこから話したものか……」
 コーヒーを飲みながら思考を理路整然する花々。
 そして問うてくる。
「日日日先輩……」
「はいはい」
「お姉様のことをどう思っています?」
「なんとも」
「それは嫌いってことですか?」
「好ましいとは思ってるが?」
「ラブ? ライク?」
「ライク」
「…………」
 またもムスーッとなる花々。
「お姉様は真剣に日日日先輩のことが好きなんですよ!?」
「それは知ってる」
「それなのにあなたはお姉様に思うところは無いというんですか!」
「と言われてもな。相手が好きだから自分も好きにならなきゃならないって法は無いぞ?」
「それでもお姉様はあなたが好きなんです!」
「音々だけじゃねえぞ? 姫々だって俺に惚れてるし、アキもその節があるっぽいしなぁ」
「誰を選ぶんですの? それとも全員とか言うつもりですか?」
「誰も選ばないって選択肢は無いんだな」
「誰も選ぶつもりもないんですか!?」
「今のところはな。誰を選んでも姫々が面倒くさいしなぁ……」
「それなのにお姉様やアキ先輩や姫々先輩の愛情に浸っているんですか!? 悪鬼の所業ですよ、それは!」
「向こうから寄ってくるんだ。邪険にするのも躊躇われるし」
「じゃあ……お姉様を……愛してる……わけじゃ……ないんですね……?」
 心から搾り取るような声で花々が言う。
「ああ」
 俺は躊躇わず頷いた。
 次の瞬間、パシンと俺の頬がはたかれた。
 花々のビンタだ。
 そして、
「すみません。蚊がいました」
 ベタな言い訳をする後輩だった。
「蚊がいたならしゃーあんめえなぁ」
 俺はコーヒーを飲みながらそう言った。
「最っ低!」
 それだけ言って花々は走り去っていった。
「なんだかなぁ……」
 俺はコーヒーを飲みながら、
「青春だぁ……」
 と走り去った花々の……その背中の残像に言葉を漏らした。

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