獣の頬に草履がめりこむ。 その草履に加えられた力のいかほどのものか、獣の跳躍の軌道は直角に修正され弾丸の如き速度で港倉庫の壁に衝突、すさまじい衝撃音とともに壁を突き破って倉庫の中へ消えていった。 そして、 「間一髪……というところでやんすか」 後にはヤクザキックを放った体制で立ち尽くす天常照ノだけが残った。 いつものボサ髪。死んだような目。咥えたキセル。深紅の羽織。 ただ一つだけ違うのは、全身に炎をまとっていること。まるでオーラのように炎が照ノを包み、夜の中に輝いていた。 照ノが足をおろす。 「あまりに都合のいいタイミングでやんすが他意はありやせんのでご勘弁ねがいやす」 煙を吐きながらそんなことを言う。 「な……」 そこでやっと思考が現実に追いつく。 「なんであんたがここにいるのよ!?」 「小生もさるお偉方から件の鬼さんの退治を頼まれやんして」 簡潔に答えられた。 「ちょ! ええ!? あんたが! あの鬼を!? ていうか何あれ!? 何の獣!? そして何そのあんたの炎!?」 「時は明和元年……」 プカァと煙を吐いて言う照ノ。 「仏国のジェヴォーダン地方で獣が人を襲う事件が発生しやした。二百回にも届く襲撃と百人にも届く犠牲をだしたその獣……赤と黒の不吉な色を纏い、牛の如き大きさ、獅子の如き毛並み、狼の如き影をもった悪魔の如きその獣を、時の人はジェヴォーダンの獣と呼び恐れ囁いたといいやす。その実態は西洋の吸血鬼ヴァンパイアの祖にも連なる異端の象徴たる人狼……その中においても高位の純正を持つ魔物ルーガルー。こと殺戮性、残虐性においては神格化さえされている西洋の鬼でやんす」 「……ルーガルー」 「並の魔術師どころか歴戦の使徒でさえ歯の立たない殺人幻想。田村麻呂ならいざしらず坂上氏が遅れをとってもいたしかたなし、でやんすなぁ……」 照ノはしみじみと言う。 「なんでそれほどの奴が日本に……!」 「さぁて。闇の領域の狭まるこの時代……時節には逆らえないんでやんしょねぇ」 やっぱりしみじみと言う。 そんな照ノの視線の先、崩壊した倉庫の壁の穴から黒い獣……ルーガルーが現れる。いや、もう獣ではない。黒い毛並みはそのままに人型になって二足歩行をしていた。照ノの言ったとおり人狼だ。 そいつは人語を喋った。 「よくもやってくれたな……」 憎々しげなルーガルーの視線を受け止めて、なおひょうひょうとする照ノ。 「泣き寝入りの横行するこの世の地獄で因果応報を唱える気はございやせんが、鞘が当たれば咎めらるるが道理でやんす。人の栄える浮世に日陰者の肩身の狭さは小生とて感じいやすが、悲しいかな不逞の徒は叩かれるのが定めなれば渡世の義理あって成敗しやす」 言って煙をプカァ。 「戯言をっ!」 吼えて、規格外の速さでルーガルーが照ノに襲い掛かる。まるで音速だ。が、かの爪が照ノに届くより速く、照ノの回し蹴りがルーガルーの横腹にめりこんだ。つまれたコンテナの山に、やはり弾丸の如き速度で衝突するルーガルー。大きな破壊音が響き、コンテナの一部が崩れる。 「…………」 唖然とする私。ルーガルーも照ノも性能が高すぎる。戦いってレベルじゃない。完全に次元違いの争いだ。 コンテナの山から這い出てきたルーガルーが、照ノと照ノの纏っている炎を睨みつける。 「炎の魔術による身体強化か……!」 「その速さたるや尾を引く星の瞬きにも似て。故に小生は流星(あまつきつね)と呼んでいやす。おもにおたくのような俊敏な鬼さんに追いつくための術でやんすね。神格化に届かん人狼と生身で渡り合えるほど人の体は丈夫にできていやせんゆえ」 言って煙をプカァ。それから照ノは両手を軽く横に広げて呪文を唱えた。 「不動明王よ……シウコアトルよ……」 右手には鳥の形をした炎が、左手には蛇の形をした炎が生まれる。密教五大明王が一柱不動明王の迦楼羅炎とアステカ神話の高位神シウコアトル!? どういうこと!? 私の疑問をよそに照ノは両手の炎をルーガルーに向けて放つ。それらは、直前に避けたルーガルーを横切って爆発……コンテナの山を蒸発させた。すさまじい熱量だ。 「……っ!」 ……開いた口がふさがらないとはこういう気持ちなのだろう。驚愕する私をおいてけぼりに、神速で照ノの背後に回りこむルーガルー。照ノは振り向こうともしない。ルーガルーの爪が照ノに襲い掛かり、 「っ!?」 そしてその爪は手に持った槍によって防がれた。 誰の手に? 悪魔だ。 照ノの背後の空間が歪み、その歪みから顔を出した悪魔が手に持った槍でルーガルーの一撃を防いだのだ。首の上には牛と人と羊の三つの頭……ソロモン七十二柱にして七つの大罪が一角、魔王アスモデウス!? 悪魔の口が開く。都合三つの口から光が漏れ……そして砲撃。丸太のように太い三条のビームが夜の闇を貫き、海面を蒸発させながら水平線へと消えていく。 ……照ノの背後が東京湾だったのが幸いである。 寸前で避けたルーガルーが驚愕に吼えた。 「馬鹿な! 何故極東民族がソロモンの秘術を!?」 思いっきり人種差別だが私も同意見。 照ノはプカァと煙を吐いて、それから淡々と言葉を紡いだ。 「一現(ひとうつつ)……火という思想背景を骨子に、数多ある魔術理論を並行する天常家の伝統芸能でやんす」 んなアホな! が、照ノはそれ以上喋らず、地面を蹴ってルーガルーとの間合いを詰める。神速の移動に炎のオーラが尾を引き、術名の通りの流星だ。迎えうつルーガルーの爪が切り裂いたのは……残像。ルーガルーの正面から背後に向かってU字の光の尾が描かれる。背後にまわりこんだ照ノは、 「っ!」 ルーガルーを天空高くに蹴り上げた。そして照ノ自身もまた天空高くに舞い上がる。上昇限界高度で追いついた照ノが、ルーガルーの背骨を殴り上げると同時に軸回転……衝撃でさらに上昇しようとするルーガルーに縦空中回し蹴りを見舞う。高速で叩き落されたルーガルーがアスファルトの地面にクレーターを作り、衝撃波が周囲に広がる。 ……なんつー蹴りだ。 「がはっ!」 クレーターの中心で吐血するルーガルー目掛けて照ノも落下。並行して呪文を唱えた。 「斬り祓えレーヴァテイン……斬り裁けラハトケレブ……」 北欧神話の最たる神器にして世界を終焉に導く業火の剣レーヴァテイン……天戒の具現にして聖典クラスの神火の剣ラハトケレブ……ともに神話級の力を持つ炎剣の並行召喚!? デタラメにもほどがある。 照ノは両手に持った神剣を落下の勢いでルーガルーに突き刺し地面に縫い付ける。直後に地面を蹴ってクレーターから跳び出ると、少し離れていた私の隣に着地する。照ノは流星を解いた。炎のオーラが霧散する。 煙がプカァ。 そして呪文。 「人の世の、乱れて主の、憂えなば、三毒煩悩、焼くもやむなし……メギドの火」 その言の葉に感応して、夜空が割れた。 星空を切り裂いて、一条の光がルーガルーへと降りそそいだ。塔に例えても大げさではない巨大な光の柱は、その保有する規格外の熱エネルギーによって触れる全てを燃やし尽くす。 「…………」 今夜最大の驚愕。 光の後に残ったのは……直系十メートルをくだらない底の見えぬ深い穴。 もはやレーザー爆撃のそれである。 プカァと煙を吐いた照ノがポツリと呟く。 「場所を追われた者の末路のなんと儚いこと……」 「自分で殺しといて何同情してんのよ……」 「自己満足を利益と換算するのなら全ての意思は損得勘定で生きていやんす。平和主義者も武器商人も、守銭奴も浪費家も、リアリストも魔術師も、快楽主義者もお釈迦様も。日陰者とてそれに変わりはありやせん。世界は無無明故に全てのことに強いも弱いもありはせず……せめて鬼さんの冥福を祈るばかりでやんす」 「…………」 偽善者だ、こいつ。 ……って言うか、 「って言うかあんた何なの!? いったい何者!?」 「それは一現と並んで口外法度ゆえ天常の血族と死にゆく者にしか話してはならぬこと」 言って照ノは、 「それゆえ小生はお姫さんを殺めねばなりやせぬ」 右手に新たな炎を生んだ。 * 昔々の神話の時代。日本には太陽神の末裔を名乗る一族がいました。彼らは強力な力をもって各地の豪族をことごとく平らげ、国で最も偉い血筋となりました。しかしその一族は太陽神を女神とする一派と太陽神を男神とする一派で影ながら派閥争いが絶えませんでした。その内部抗争はそのまま帝の座を争うことに直結しているためどちらの勢力ともに折り合いはつけられません。話し合いの余地なく武力抗争へと発展し、太陽神を女神とする一派が勝者となりました。太陽神を男神だとする一派は一族を追われ東へと流れます。後に太陽神を女神とする一派はこの争いを日本書紀に残そうとしますが、はてさて困った。謀反したとはいえ仮にも太陽神を男神だとする一派も同じ血筋。各地の豪族と同等の国津神にするわけにはいかぬ。かといって太陽神は二柱もいらぬ。妥協案がとられました。男神を天津甕星と名付け、悪しき星神として語り継ぐことになりました。こうして日本最古のテロリストとなった太陽神を男神とする一派はそれ以来歴史の表舞台に立つことなく身を潜めて生きていくこととなりました。めでたしめでたし。 女神の名は天照大神(あまてらすおおみかみ)。 男神の名は天津照神(あまつてるのかみ)。 天津照神を祭る一派はしつこい性格で隠遁後も天照大神を認めず子々孫々「真の太陽神は天津照神」だと口伝します。そして代々の当主は天津照神から神の字を抜いて天津照ノと名付けられましたが、真正面から天津を名乗ると書面にしたためたときに帝族詐称となり役人と衝突するため字面を天常に改めました。後に政を離れたこの一族は魔術に傾斜し、その素養を培います。平安時代の当主が異国の魔術を積極的に取り入れ一現なる術を開発しますが、それはまた別のお話。 「つまり小生は日本最古のテロリストの血筋というわけでやんすね」 煙を吸いながら照ノはそうまとめた。 あの後、つまりルーガルーを退治した後……照ノは左手につまんだ刻み煙草を雁首に詰めて、右手に生みだした炎で煙草に火をつけた。プカァと煙を吐いてから、 「でやんすから小生のことはどうか内密に」 そう言って細く笑った。 「私のこと殺さないの?」 「必要とあれば殺めもしやすが、お姫さんが黙っていればそれですむこと。事を荒立てることもありやせん」 つまり見逃されたのだった。 後日それとなく確認したが陰陽頭でさえ天常照ノの能力と背景を知らないようで、本人曰く事情に通じているのは両手の指で数えられる人間だけだとの事。結局何人かは知ってるのねとつっこめば「渡世の義理には勝てやせん」と困ったように言った。それにしても恐るべきは中世全盛の異端幻想でさえ反撃も許さず一方的に駆逐してしまうあの力。あれが神代の力……。 今日も照ノは陰陽寮の離れ家で本を読む。 その落日まで。 |